ノート:伊勢湾台風

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HERB様、伊勢湾台風の最大風速について、アメリカ海軍の観測値として165ノットと記述していただきましたが、当方は、かなり古い資料ですが(書名・著者名等はもはや記憶にありません)175ノットという記述を見たことがあり、1961年版の理科年表にも1959年の台風15号の最大風速として90メートルと記載されていましたので、165よりは175のほうが事実に近いように思います。それで、僭越ながら書き改めさせていただきました。もし165ノットが正しいのであれば、お手数ですが訂正・ご教示下さるようお願いします。61.122.217.180 2005年12月30日 (金) 02:17 (UTC)[返信]

165 knots というのはen:Typhoon Veraの外部リンク JTWC Typhoon Vera Reportの1ページ目(p.110)第2段落5行目 "winds of 165 knots near the center" によるのではないかと思います。--miya 2005年12月30日 (金) 06:04 (UTC)[返信]

気象に置いては中京地方という表現を用いることは極めて希です。従いまして、東海地方と表記を変えさせていただきました。61.118.119.15 2006年3月27日 (月) 03:52 (UTC)[返信]

高潮と大潮の関係[編集]

とりあえずコメントアウトしてみました。 大潮の日と重なったために、高潮の被害がさらに大きくなったという事は、マスコミなども含めかなり広く言われていることです。また、高潮の被害が拡大していったのは最接近前後から未明にかけての時間帯のはずで、満潮時間が9月27日0時45分だった、それも1年でも最も潮位の高い時期だった事を考えれば、満潮が高潮に影響を与えていないとは考えられないのではVilleneuve1982 2006年7月23日 (日) 07:03 (UTC)[返信]

Villeneuve様へ。貴殿のご意見には本当に驚きました。高潮や潮汐について、あたかも基礎的な事さえ理解しておられないように、少なくともお書きになった文を読む限り、そう思えますので。当方は、伊勢湾台風襲来時の月齢を24と記したはずですが、それは読んでいただきましたか? 貴殿は地学がご専門との事ですが、釈迦に説法とは思いつつ解説しますと、1朔望月は29.5日ですから、月齢0と15の付近数日間が大潮に当り、7と22の付近数日間が小潮に当ります。24はどう見ても大潮とは考えられません。当方が当時の新聞から拾ったその月齢が誤りだとは言わないで下さい。例えば、『天気図10年集成』の記述を見ても、伊勢湾台風襲来時の月齢が小潮に相当するものであったことは明らかです。それとも、大潮であったとする資料が何かあるのでしょうか?
あるいは、貴殿は大潮と満潮を取り違えておられるのでは、と当方は愚考します。当方も伊勢湾台風関連の新聞雑誌を全部読破したわけではありませんが、伊勢湾台風来襲時が満潮であったと書いてあるものは時々見ますが、大潮云々というのは目にしたことがないからです。だが、当方がウィキペディアの記事に書きましたように、伊勢湾台風と満潮が重なったというのも誤りです。満潮時からせいぜい1時間か、ぎりぎりでも2時間以内に来襲したというならともかく、3時間以上も離れていては、もはや満潮ではありません。貴殿は、日潮不等を別にすれば、干満の間隔が約6時間ということはご存知ですね? 「満潮が高潮に影響を与えていないとは考えられないのでは」と書いておられますが、それはどこから出た推論ですか。何らかの資料による裏付けがあるのでしょうか? 当方が愚考しますに、「考えられないのでは」といういかにもあいまいな、切れの悪い表現は、ノートとはいえ百科事典に関する文としてふさわしいとは思えません。何も具体的なデータがないため、ご自分の思い込みだけでおっしゃっているのではないでしょうか? 伊勢湾台風時の名古屋港の検潮記録を見ますと、気象潮は台風接近時に向けて急激に高まり、最接近時のピークを過ぎると共に急速に低下し、27日0時45分の満潮時には、推算天文潮位を越える事わずか数十センチメートルまで下がっています。当然の事で、台風が去って気圧は急激に上昇し、風向も北又は西寄りになって、高潮を起こす要素はなくなってしまいましたから。これだけ見ても、満潮は高潮被害にほとんど影響していないのは明らかです。
マスコミで定説云々、のお言葉には失笑を禁じ得ませんでした。百科事典に必要なのはマスコミの判断ではなく、科学的・合理的データでしょう。マスコミがなんと言っても、科学的・合理的データが伊勢湾台風と満潮・大潮は無関係ということを示しておれば、それに従い、マスコミの誤りを正すようにするべきです。当方としては、「注)」の項はいささかそぐわないように思っていたので削除しようかとも考えましたが、貴殿のご記述を見て、やはり残しておくべきだと考え直しました。
もっとも、当方も台風や気象の専門家ではなく、或いはとんでもない思い違いを犯している可能性が無きにしも非ずです。「注)」の復帰は1週間ほど据え置き、貴殿のご意見をお待ちしてからといたします。暴言多謝。61.122.217.180 2006年7月25日 (火) 04:03 (UTC)[返信]
なんだか舌足らずで誤解を招いてるようなので、改めて書いてみますね。
”大潮”でないことはこちらも把握していますし、”大潮だったはず”なんて書かなかったつもりです。大潮の原理についても、説明いただかなくても大まかに知っています。ただし、事実として言えるのは”大潮当日ではなかった”そこまでですよね。”台風襲来時が満潮(略)と重なったためであると(中略)記されていたが、これは誤りである。”と書いてしまいますと、満潮が全く影響がないことになってしまいます。
その点について、満潮の頃には潮位がかなり下がっていた事もお書き頂きましたが、それだけでは満潮が高潮に全く影響をしていないとは断言できません。”満潮でなければもっと早く高潮が収まっていた”などという可能性もあり、このあたりのことを断言するには、コンピューターでシミュレーションするぐらいのことは必要でしょう。
また、大潮当日ではなくても、この時期は潮位そのものが底上げされて高い時期なのは確かなので、それが影響を与えた可能性もあります。そういう意味でマスコミが大潮という言葉を誤用しているだけで、潮位は低いと言えるものでもないかと思います。
これだけ定説となっている話を覆すには、はっきりした根拠が必要です。今の文章は全体としてはどうも”定説の記載”ではなく”自説の記載”のようになってるのではないでしょうか。すくなくとも私は読んでそういう印象を受けました。百科辞典として書くべきなのは、動かぬ証拠で定説を覆すことができる“大潮当日だという話は誤りである。”ここまでで、それ以降の仮説はもうちょっと社会的にコンセンサスを得てからにするか、柔らかい文章にすべきではないかと思います。このノートでもそうですが、文章が一方的すぎるかと。Villeneuve1982 2006年9月7日 (木) 10:12 (UTC)[返信]

Villeneuve様、ご意見いただき、有難うございます。早期に返答するのが当然ですが、当方は恥ずかしながら自宅にパソコンが無く、職場のを昼休みや終業後のわずかな時間に使えるだけであるため、思うように返答できない旨、何卒ご了承下さい。

さて、伊勢湾台風と満潮の件ですが、確かに、正確を期するには数値実験でもするしかないでしょうが、そこまで細かい事を言っては何も書けなくなるのではないでしょうか。細部にこだわるなら、伊勢湾の水の固有振動も、木曽三川からの流入水も高潮に何らかの影響が無いとは言えなくなりますが、そんな事まで証明してからでないと記事が書けないとなると、正に角を矯めて牛を殺す事になりかねません。当方としては、マスコミなどで「伊勢湾台風の高潮と満潮が重なった」という明らかな間違いを指摘するつもりで件の文を書きました。

少なくともこれまでに見た資料では、満潮が伊勢湾台風の被害を増大させた云々の記述はありませんでした(無論、台風襲来と満潮が重なったというような資料ではなく、専門的な立場から書かれたものです)。当時の検潮記録でも、確かに満潮に向かっての天文潮位の増大によって多少気象潮位の低下速度が鈍った形跡は見て取れますが、台風最接近の21時30分頃をピークに、ほぼ直線的に潮位は低下しています。伊勢湾台風時の潮位記録は、68年や72年の書籍には掲載されていました。現在でも、関係書籍には出ているのではないでしょうか。いずれにしても秘密事項ではありませんから、ぜひお確かめ下さい(既に見ておられるなら申し訳ありません)。1985年7月に関東に上陸した台風第6号では東京湾に高潮が起こりましたが、その際の検潮記録では、台風最接近に合わせた潮位のピークの後、2時間ほどたって第2の山が見られます。この時は干潮に向かって天文潮が低下しつつありましたので、これは満潮の影響ではなく、台風が東京湾の北に移動して東京湾では西風が卓越するようになったために千葉県沿岸に高潮の域が移動し、その返し波が来たためだとされています。ともかく、このように検潮記録にはっきり山が現われるほどであれば、当方も満潮の影響は無視できないと思いますが、そうではありませんので、無関係と理解しております。61.122.217.180 2006年10月3日 (火) 03:56 (UTC)[返信]

鍋田干拓地における犠牲者の人数について[編集]

「有名な鍋田干拓地では堤防のほとんどが破壊され、住宅地と耕地は全滅、314人の入植者のうち生存者は128人に過ぎなかった。」 この部分だけを読むと犠牲者の人数は引き算をして186名と考えてしまいますが、多くの資料に犠牲者数を133名と書かれているので計算が合いません。弥富市の資料では入植者の46.3%の犠牲者を出したとあります。入植者の中には当日別の場所に避難していた人もいたようなので、生存者の中からその人数が除かれているとするなら計算が合うのかもしれませんが、何にしろ現状の記述は不適切ではないでしょうか。出典を求めます。--211.10.139.99 2007年11月4日 (日) 05:34 (UTC)[返信]