ノート:人称

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オタク文化の衒学[編集]

 本来日本語にない概念であり、衒学の類である。  きわめて特殊な作品においてのみいえることであり、コクトー「怖るべき子供たち」などでは、全く意味を成さない概念である。  以前の版との齟齬が多く、オタク文化の衒学に過ぎないと思われる。文学研究者による出典元を明らかにすべき。「べき」論で片付けられますが、あまりにも酷い記事です。--Beta triton 337 2008年5月9日 (金) 21:27 (UTC)

人称#小説における叙述形式のことですか。初版からあります。Point of view (literature)を元にしたようです。言語学の人称とはあまり関係がないので、削除して良いと思います。 - TAKASUGI Shinji (会話) 2008年5月10日 (土) 01:02 (UTC)

 :人称#小説における叙述形式三人称を完全に表すと、定点観測・監視カメラを時間による早回しもなく、トイレにも立たず、ひたすら見ている状態です。これでは、この誤解を説明できません。--Beta triton 337 2008年5月10日 (土) 15:00 (UTC)  :人称#小説における叙述形式視点を動かすことができるということは、動かさないでも成立するはず。それが成り立たないならば小説における人称の説明にはなっていない。つまり、視点を動かし、時間や場面を動かすことが「できる(can,shall,may)」というよりは、「しなければならない(must)」類のこと。  主体小説、客体小説として、単に人称による説明では成され得ない事を説明しようとしています。主客観は、デカルト合理主義で、あくまでも、「神」の存在証明をするためであったと、ハイデガーは「存在と時間」で批判しています。現象学的思考の延長として主客体小説は「作家と読者」の間の現象であり、通常一方的に作者からの「指示」に過ぎません。--Beta triton 337 2008年5月10日 (土) 15:48 (UTC) >『「神の視点」とは、作中のどの人物の視点からも描くことができる多元的描写である。』という点で、突拍子もない超越が見られます。小説は作者の「気遣い」と読者の「解釈」です。  一人称の「吾輩は猫である」というものは、夏目漱石が猫の視点から語る、「神の視点」で片付けられないでしょうか。

 もちろん、漱石は作家で「神」ではありません。語り口のレトリックとして、漱石は「猫の視点(仮面)」を借りて猫に見解を述べさせています。一人称とはとても言えない。特に混乱させられる「神の視点」の「神」については、作者の視点でしかないのです。そもそも「神」の定義ができていません。  もしかしたら、作法論的ではなく、内容論かもしれないので、追記します。「ソフィーの世界」は、内容に関わらず、登場人物が三人称であるから、「神の視点」でしょうか。どう考えても、作者の視点であり読み手への気遣いでしょう。  人称が問題になるのは主語と人称の抜けやすい日本語系から海外の言語(特に英語)への翻訳者の不満です。:人称#小説における叙述形式小説の海外翻訳の問題点であって、昨今の小説家志望の方には、不適切です。言語学からの小説分類論には無理があります。独自研究の域から出ていません。--Beta triton 337 2008年5月11日 (日) 00:41 (UTC)  物語論物語論を参照してください。そこでは、あくまで「伝統的に」と述べられているのが、相当すると思われます。--Beta triton 337 2011年7月15日 (金) 00:21 (UTC)