ノート:五葉亭広信

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

「和藤内・尾上松玉」と「八重垣姫・大谷友松」について[編集]

『原色浮世絵大百科事典』第2巻85頁の「広信(初代)」で作例とされた「和藤内・尾上松玉」と「八重垣姫・大谷友松」について。

まず「和藤内・尾上松玉」ですが、『原色浮世絵大百科事典』第2巻85頁は安政元年(1854年)2月、若太夫芝居『国姓爺合戦』の時のものとしています。調べてみると早稲田大学文化資源データベースに番付の画像があり[1]、役者も尾上松玉(二代目尾上多見蔵)で間違いありません。ただし嘉永7年とするのが正しい(嘉永7年11月に安政に改元)。

つぎに「八重垣姫・大谷友松」ですが、『原色浮世絵大百科事典』第2巻85頁は万延元年(1860年)10月、天満芝居『本朝二十四孝』の時のものとしています。この時の番付も残っていました[2]。しかしこのとき大谷友松は確かに一座にいたが、八重垣姫は藤川友吉が演じています。念のため伊原敏郎の『歌舞伎年表』(第七巻)でも確かめましたが、やはり八重垣姫を演じたのは藤川友吉でした。よって『原色浮世絵大百科事典』第二巻85頁の、万延元年(1860年)10月、天満芝居『本朝二十四孝』の時のものとするのは間違いということになります。

大谷友松は元治2年(1865年)3月、筑後芝居『宿花操文章』で八重垣姫を演じており[3]、広信の作はこの時のものと見られます。こちらでも元治2年3月としています(元治2年4月に慶応に改元)。『原色浮世絵大百科事典』第2巻85頁にある「和藤内・尾上松玉」と「八重垣姫・大谷友松」についての説明は、正確とは言い難いといえます。--ものぐさたろう会話2019年1月27日 (日) 00:53 (UTC)[返信]

(追記)「半がく女・嵐徳三郎」についても見落としていましたが、これも『原色浮世絵大百科事典』第2巻85頁で説明している安政5年正月ではないので訂正しました。また「和とふない・尾上松玉」については、「華競錦写絵」というシリーズの錦絵として同じ年に製作されたと見られるので、元治2年2月の時の興行のものとしました。こちらでも1865年としています。--ものぐさたろう会話) 2019年1月29日 (火) 00:37 (UTC) 記述訂正。--ものぐさたろう会話2019年1月29日 (火) 00:56 (UTC)[返信]