ノート:九谷焼
編集理由の説明
[編集]「九谷焼」の記事を立ち上げていただき、ありがとうございます。「日本語版」でありながら、日本の伝統工芸に関する記事がほとんど育っていない現状では、たいへん貴重な投稿です。 さて、このたび記事中の「古九谷有田説」に関する段落をすべて抹消の上、新たな文章に差し替えさせていただきました。このような大幅な変更を行った責任上、その理由を明らかにしておきます。純粋に中立的・客観的立場からの変更であり、何ら他意はございませんので、どうかお気を悪くなさらないでいただければと思います。
(1)「1991年に東京国立博物館が『古九谷は有田である』という発表を行った」との記述について。
これを削除する理由は次のとおりです。まず、東京国立博物館(以下「東博」)という公的機関が、「館」としてこのような発表を行うことは考えにくいと思います。1991年に何らかの発表があったとしても、それは「博物館」ではなく、学芸員個人によってなされたものと思われます。なお、東博の陶磁室長を長く務め、東洋陶磁史の権威である矢部良明氏は「古九谷=有田」論者であり、東博では1985年実施された特別展「日本の陶磁」以来、「古九谷」ではなく「古九谷様式」という用語を使っています。また、「古九谷=有田」説は第二次大戦前からあり、昭和30年代から盛んに議論されるようになったものです。元の記述では予備知識のない読者には「1991年、東博が初めて古九谷=有田説を発表した」ようにとられかねないので、記述を変更したものです。
(2)東博が比定した有田の窯では色絵を焼けないとの記述について
有田では本焼きと色絵の窯は別であり、本焼きの窯跡からは色絵の陶片が出土しないのは当然です。また、有田の赤絵町遺跡からは、古九谷風の色絵陶片が出ています。磁器は、磁土に釉薬(うわぐすり)を掛け1,300度ほどの高温で焼成することによってできます(本焼き)。色絵は、いったん本焼きした器の表面に赤、青、緑、紫などの絵具で文様を描いて、800度ほどの比較的低温の窯で再度焼き付けたものです。
(3)1999-2000年の九谷の発掘で色絵窯の窯跡が発見され、古九谷=有田説はほぼ否定されている、との記述について
ここで言う「色絵窯」は、九谷古窯の近くで発掘された「九谷A遺跡」のことではないかと思われます。たしかにこの遺跡からは古九谷風の色絵陶片が出土していますが、このことをもって、ただちに伝世品(「出土品」に対する用語)の古九谷のすべてが加賀産である(有田では焼かれなかった)とすることはできないのであります。有田の山辺田(やんべた)窯からは、1961年の発掘調査で、伝世古九谷と図柄が一致する染付の陶片が出土しており、有田赤絵町郵便局遺跡からは色絵の陶片も出ています。さらに、1974年、有田の丸尾窯からは従来「藍九谷」と呼称されていた、初期の染付の陶片が出土しています。一方、1970年から発掘調査が始まった、石川県山中町の九谷古窯では、磁器が焼造されていたことは確認されましたが、発掘陶片はいわゆる古九谷とは作調の違うものでした。九谷古窯の開窯は明暦年間とされ、そのことは文献からも裏付けられますが、伝世の古九谷皿には明暦より前の元号である承応2年の銘をもつものが存在します。これらの考古学的発掘の結果や、様式編年研究、出土品の化学的分析の結果などから、現在では「古九谷」の大部分は、実は有田(伊万里)の初期色絵(1640年代頃)の作品であるということがほぼ定説化しています。石川県立美術館の学芸員である寺尾健一氏は、金沢生まれ、金沢大学卒の生粋の石川県人ですが、最近の著書の中で、「古九谷のすべてが有田産とすることはいささか無理がある」「同一様式のものが複数産地で生産された可能性も探る必要がある」と慎重な言いまわしをしておられ、古九谷が加賀産だとは言っていません。(『日本のやきもの窯別ガイド九谷』、淡交社、2003)ウィキペディアでは「中立的な観点」ということが非常に重視されています。以上長々とご説明したことから、「産地問題については、長年論争があり、いまだ決着を見ていない」 とするのがもっとも中立的かつ客観的に正確な記述であると考えるものです。ご理解をお願いします。Urania 2005年1月29日 (土) 05:10 (UTC)
写真版権
[編集]写真、古九谷獅子牡丹文銚子, 文化庁がuploadしたとして載っていますが、upload元のURLを此所で示してください。掲載の可否を論じたいと思います。不明確な版権宣言は1週間程度で削除されます。出来れば写真も生かす事を検討しましょう。--Namazu-tron 2008年6月26日 (木) 00:04 (UTC)
九谷焼への提案
[編集]九谷焼への提案
[編集]現在の時点(2012.07.12)で、九谷焼は過去の栄光を喪失した状態にあります。それは学説として成立した理論によって喪失したものでなく、一学芸員の恣意によって吹聴された論議です。また、九谷焼の過去の栄光も一個人の恣意によって与えられた栄光であると云えます。今日の如き、九谷焼への関心が大きいときに、その真実に迫り、正しく九谷焼を理解するために現在公開されているノートの集成を試みたのであるが、新しい表示として採用されなかったようである。ちなみに、ノート・九谷焼の冒頭に掲げる「古九谷色絵銚子」は、国立東京博物館で、当初「若杉焼」として開陳されていた。次いで「古九谷」に変更され、現在は「伊万里焼」として展示されている。一つの製品が、僅か数十年の間で三度、その名称が変更されている。変更したのは国立東京博物館である。私が編集した「九谷焼」を公開表示して頂き、広く公論を求めて欲しいと願っている。「古九谷産地論争」を論拠とする議論は、未だ鑑定家の議論であって、学術的史料を基にした議論ではないことを知って欲しいと願っている。--おとひこ(会話) 2012年7月12日 (木) 12:16 (UTC)