ノート:中落堀川

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中落堀と中落悪水について[編集]

本記事概要節に「1875年(明治8年)頃の記録である武藏國郡村誌にも「中落悪水」として記載がある。」とありますが、本河川:中落堀川は同文献中の「中落堀」であり、中落悪水は現存の中堀落川ではないかと思われます。

『武藏國郡村誌 第十一巻』吉羽村(二九四ページ)
「中落堀:村の西方久喜新町界より来り長十間南に向下 西村界を至りて長十丁五十間向下 大落堀(大落古利根川)に会す」
「中落悪水:村の西方字西前耕地より起りて字前諏訪等の耕地を経て中落堀(中落堀川)に合す」
『同上』西村(二九八ページ)
「中落堀:村の戌の方吉羽村界より来り南流して亦吉羽村界に至る」
「中落悪水:村の戌の方字西前より起り東南に流れて吉羽村界に至る」
『武藏國郡村誌 第十二巻』久喜本町(一二七ページ)
「中落堀:町の北方九本寺村界より来り曲折東流し古久喜の境を囲焼して久喜新町界に至る」
『同上』久喜新町(一三二ページ)
「中落堀:深五尺巾三間 町の辰の方久喜本町界より来り東南吉羽西二村の界に入る」

--180.2.25.44 2011年1月24日 (月) 11:11 (UTC)[返信]

コメント 申し訳ありません。私に資料の誤読があったようです。『久喜町全図』、1966年、人文社と比較すると、
  • 『武蔵国郡村誌』の流路:西前-前諏訪-中落堀。長さ10町50間(=約1200メートル)。
  • 『久喜町全図』の流路:西前-前-諏訪-中落堀。長さ約1500メートル。
であり、排水路の流路が用水路よりも変更されにくいことを合わせて考えると、明治の中落悪水と今日の中堀落川が同じ水路と考えるのが合理的なように思います。しかし、この断定はいわゆる独自研究に当たる可能性があるように思います。この記事の記述は訂正しますが、中堀落川=中落悪水の断定に関しては引き続き要出典としたいです。明治当時の詳細地図はないものでしょうかね?--Freetrashbox 2011年1月25日 (火) 13:34 (UTC)[返信]
(追伸)この記事に関してはすでに訂正済みですね。お手数おかけしました。--Freetrashbox 2011年1月25日 (火) 13:35 (UTC)[返信]
コメント 上記のコメントよりお時間が経過してしまっているようですみません。『久喜町全図』以前の地図として私の知るところでは『太田村全圖』(久喜市公文書館蔵)や『迅速側図』などがあり、前者の方は『久喜町全図』などを参照しながらでしたら、流路が把握できる程度には利用できるかもしれません。しかしどちらも河川の名称が記されていないという難点がありますので、利用法が少々難しいかもしれませんね・・・。--180.28.160.117 2011年7月7日 (木) 02:37 (UTC)[返信]