ノート:上杉憲寛

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上杉憲寛(足利晴直)の正室が足利義明の娘であるという記述の出典について質問がありましたのでお答えします。その出典は『寛政重修諸家譜 巻第七十八』の宮原氏の項です。

そこの足利晴直の記述には、「室は足利左兵衛佐義明の娘」と書かれており、また足利義明の項には娘として「足利晴直室」がありましたので、それを参考にしました。しかし、確かにご指摘のあった通り、年代的に矛盾が生じていたようです。足利晴直とその正室の長男・義勝の生年が享禄3年(1530年)ですからその母親の生年はせいぜい永正12年(1515年)以前となりますが、ご指摘のように義明の長女とされる青岳尼が天文年間以降の生まれとすると、どうしても合わない事になります。

以上の事から、上杉憲寛の正室=足利義明の娘とするのは、どうやら史料の誤伝であるらしく、コメントアウト又は記述の除去もやむを得ないと思った次第です。--202.221.183.29 2005年12月12日 (月) 06:37 (UTC)[返信]

「寛政重修諸家譜」がソースというのは分かりました。あと、もう一つおかしいと思ったのはそもそも古河公方と小弓公方の分裂の経緯を考えるとその当事者である高基・義明兄弟の子供同士の婚姻は考えづらいという事です。両者の対決が解決しなかったからこそ第一次国府台合戦に至るわけですから(もう一つ考えたのは憲寛が上杉氏を追われた後に内紛のために実家の古河公方に戻れずに義明と結んで記録に出ていない庶子を娶って上総に移住した可能性ですが、義勝の誕生が追放以前とすればその可能性も低そうです)。恐らく憲寛正室は他の足利一族の縁者である(関東管領の正室であれば、他の足利一族からの婚姻は容易である。また、晴氏が将軍義晴から一字拝領を受けているところを見ると、将軍家と古河公方家が以前のような厳しい対立関係にあるとは考えにくい)のでは?--163.139.24.98

横槍失礼、足利義明の娘については従来は青岳尼を長女とするのが通説とされてきていましたが、近年になってその妹と考えられてきた東慶寺の旭山尼が天文6年(1537年)の上総真里谷氏の内紛の仲裁に入っていたする記録が注目されるようになり、青岳尼が1525年あるいは1530年生まれとされる夫の里見義弘よりも大幅に年上であったとは考えにくいと見られることから、足利義明の長女を青岳尼とする通説も100%正しい保証はないようです。つまり青岳尼に姉がいた可能性も決してゼロではないという事です(もっとも、古河家・小弓家の関係を考えると憲寛の正室を直ちに義明娘と判断する事は出来ないのですが……)。一応指摘まで。--水野白楓 2007年2月15日 (木) 04:03 (UTC) (更に追記)実は近年になって滝川恒昭氏が里見義頼が里見義弘と青岳尼の子供であるとする説を唱え、続いて佐藤博信氏が「青岳尼2人説」とも呼ぶべき説(里見義弘には足利義明の娘で義頼を生んだ女性と義明の妹で鎌倉太平寺の住持をして後に義弘の室になった女性が存在し、この2人の伝記が混同されて1人の人物になったのが“青岳尼”になった)が提唱され、義明の娘についての通説が見直される可能性が出てきたようです(お知らせまで)。--水野白楓 2010年6月6日 (日) 11:21 (UTC) (2度目の追記)実は、ちょっと調べ物をしていたところ、上杉憲寛と足利義明の同盟の事情について確認できたので、加筆しました(しかし、上杉朝興の「反北条同盟」に憲寛と義明が別々の意図で参加して、義明と朝興の同盟に脅威を感じた高基が北条氏綱と同盟したために、憲寛や武田信虎を含めた全同盟参加勢力が古河公方と敵対する状況に陥ったって、「どうしてこうなった」の世界ですね)。--水野白楓 2010年9月18日 (土) 12:39 (UTC)[返信]