ノート:三河一向一揆

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構成について[編集]

219.125.137.118さんに質問なのですが、一揆の発端は記してあるのに、収束とその後が記されていないのは何故ですか?もし良かったら、前述の部分を暫定的に原文から移したいのですが。曹洞2007年3月19日(月)04:15分(UTC)

一揆の利権とありますが、一揆というより、本願寺教団の利権だと思うのですが。曹洞2007年4月9日(月)03:45分(UTC)

安祥城(および安城市)が、三河の中原に位置しているのは、間違いないです。[編集]

http://www.bekkoame.ne.jp/ro/gi11927/siro/TOUKAIDOU/anjyou.htm

三河一向一揆という表現や、三河武士でもわかるように、通常三河といえば西三河を指します。

中原とは、野原の中央、天下中央の地を指します。

考古学の見地から、寺領~別郷辺りに、古代の西三河の中心があったことが、出土物や古墳・遺跡から判明しています。 また、浄土真宗の本証寺も野寺・寺領にあります。

安祥城近くの上条町は、石神遺跡木簡に大市郷と記載されたほど古いです。大市の言葉からも、巨大な市場があった集落を指す。

安祥松平家50年の本拠地になった要害です。山奥の松平氏の飛躍を象徴する用語で、適切です。


※※※※ 岡崎市の史跡案内に上宮寺が一向一揆の盟主だ、などという根拠不明の妄説が書いてあった。 また、岡崎市の土呂の本宗寺は、蓮如の一族が住職になっていたので、三河の本願寺の統括寺院だ。また、本宗寺は巨大な寺内町だ。などという主張があることを確認した。土呂山畠今昔実録』(明和5年に、土呂は1200軒の寺内町だ、などという主張がある。

そこで調べてみた。三河一向一揆の頃には、本宗寺の住職は死んでいた。本宗寺は、三河三か寺に入ってない。土呂には、本宗寺はすでになく、美合に移転しており、跡地周辺には、土塁も堀も遺構も何もなく、寺内町であるはずがない。発掘調査も行われていない。

上宮寺のほうは、三河での真宗の始まりは、うちだという史料があるらしいが、江戸時代のモノで怪しいらしい。一揆の上宮寺での発端説は、江戸時代末期の徳川実紀などで出てくる説で、怪しい。菅沼なにがしが、架空の人物らしい。 大久保の三河物語、針崎の勝万寺の文書では、本證寺で起きた、となってる。もちろん、三州一向宗乱記でも掲載されてる。

同時代史料の書状では、こうなってる。天正13年11月11日、道場・門徒拝領・・・・・、石川日向守、本多佐渡守、酒井左衛門尉、連署花押。 宛先、本證寺、勝万寺、上宮寺。

これを見ると、本證寺が筆頭にある。三河三か寺に本宗寺は入ってない、脱落・無視されてる。 三名の連署を見ると、石川日向守が筆頭にある。石川氏は、三河の一向宗の総代になっていた。

また、別の書状を見る。

野寺道場屋敷之儀、自今以後不可有相違、 三并家来卅(三十)間之儀、 諸役令免許者也、仍如件 天正十三年十月廿八日家康(黒印)     本證寺

本證寺には、徳川家康から、黒印状が、発給されている。家康(黒印):無悔無損  「無悔無損」の黒印の初見。この書状は原本が残っている。

→上宮寺、勝万寺では、なぜか、針崎道場屋敷之儀、自今以後不可 勝鬘寺文書。佐々木道場屋敷之儀、自今以後不 上宮寺文書。 とまったく同じ書き出しです。しかも写しです。どっちも、黒印状か?とされているが、勝万寺は、家康御墨印。上宮寺は、差出し、家康で、岡崎市は、これは家康黒印だなどと主張している。徳川家康文書総目録を見た。無悔無損」の黒印は、本證寺のみで、上宮寺と勝万寺にはなし。まさか、偽造?天正十三年十月廿八日、なぜか日付も同じです。

2018年の本證寺の外堀の発掘調査で、戦国時代の鉄砲玉(弾丸)が出土しており。本證寺の周辺で銃撃戦(戦闘)があった。本證寺(一向宗)側が鉄砲を持っていた?可能性が指摘される。三河物語にも、家康が一揆で銃撃を受けたという記述があり、符合する。本證寺は、外堀、内堀、土塁を備えた城郭伽藍になっており、寺内に商人がいたという記述が永禄一揆由来・勝万寺文書にあり、寺内町であったとされる。

本證寺には、蓮如の子孫の空誓がいたが、他の岡崎市内の3寺には、三河一向一揆当時には、蓮如の一族はいなかった。 本證寺文書末寺帳(江戸時代のデーターだが)によると、末寺は、220になってる。--126.50.253.120 2022年8月31日 (水) 11:57 (UTC)[返信]