ノート:三国時代 (中国)

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

出典要求の箇所について(後世への影響)1[編集]

正史三国志に記載されています。というより、三国志を読む者の一般常識です。典拠は、蜀書先主伝、呉書孫権伝などです。また、「後世への影響」については、例えば、世界の民族史中国編(文責岡田英弘)などに載っています。--以上の署名の無いコメントは、210.20.37.95会話/Whois IPv4IPv6)さんが 2006年9月24日 (日) 05:52‎ (UTC) に投稿したものです(Type20会話)による付記)。[返信]

了解です。ただし、ひとまず差し戻します。
再度記述を行いたければ、ノートで出典箇所を説明するか、本文に注をふってください。ウィキペディア内には「説もある」という記載のみで、出典不明・レファレンスにも何もなっていない場合がままありますが、そういった箇所をこれ以上増やさないようにしましょうよ。また、岡田英弘氏の概説文を典拠にするのは望ましいものではありません(定説とは現在とてもいえませんし、概説書が典拠というのもよくありません)。これについても削除か注を振るなどして対処してください。
ともあれ、今後とも読み手にわかりやすい記載を心がけてください。ウィキペディアにおいては、そのシステムのために書き手の信用は一切担保できません。そのため、典拠を丁寧に記載することはいっそう重要なテーマとなります。Wikipedia:出典を明記するをご覧ください。また、「三国志を読む者の一般常識」などと相手を突き放すがごとき書き方は今後はお控えください。Aboshi 2006年9月24日 (日) 06:36 (UTC)[返信]
それと「後世への影響」という節名と内容が全然合っていません。らりた 2006年9月24日 (日) 09:44 (UTC)[返信]
これは私の記事です。この頃、ログインせずIPユーザーとして投稿していました。
あの項目の要旨は、「大規模な人口減少があったので、三国時代は存在意義のない時代ではなく、確かにその後の中国史に大きな影響を与えた時代であった。三国時代近辺の動乱があった結果、それ以前の1000年間には起こってこなかったような異民族の中国割拠を招いてしまった。すなわち、三国時代は、負の意味ですけど他の時代よりも目立つ深刻な後世への影響を残した。」
ということです。
ですから、「後世への影響」と名付けましたし、人口減少よりも、わかりやすくて良いと思いました。
希望 2006年10月12日 (木) 00:24 (UTC)[返信]
>などと相手を突き放すがごとき書き方は今後はお控えください
済みません。てっきり、二回目の加筆部分「荊州の約束」の件で削除されたと思ったので。
蜀書先主伝には、「復従権借荊州数郡」と確かに租借契約が存在したろうことを示す記述があります。
また、呉書呉主伝にも、そのような記述があり、催促した際、涼州獲得後、と劉備が答えている箇所があります。
ですからあのように書きました。希望 2006年10月12日 (木) 00:40 (UTC)[返信]

Template:中国の歴史における議論について[編集]

現在、Template‐ノート:中国の歴史において明を滅ぼした李自成が建国したとされるTemplate:中国の歴史に入れるか否か、また入れるとしたらどのように入れるかが議論されています。テンプレートに入れるべき王朝の範囲を決める重要な議論になるかと思いますので、の位置づけも含め、ご関心のある方がいらっしゃいましたら、ぜひコメントとご教示をお願いします。--203.124.91.163 2008年10月19日 (日) 18:11 (UTC)[返信]

出典要求の箇所について(後世への影響)2[編集]

出典を求めるテンプレが貼られていますので、根拠、掲載致します。

あちらの項目は、山川出版社、民族の世界史5「漢民族と中国社会」pp.86-96北族の時代、文責岡田英弘です。中国人人口が10分の1以下に激減した、その結果として反切、韻書が出現した、人口の激減が原因となりこの時代、大陸再統一に異様に時間がかかった、等々全てこの箇所内に記載があります。--希望 2009年3月1日 (日) 04:47 (UTC)[返信]

ただし、現後半部の4行については、私が書いたわけではありませんし、私も典拠は知りませんし、賛成もしかねるので、「要出典」を付けました。--希望 2009年3月2日 (月) 17:59 (UTC)[返信]

広義での三国時代?[編集]

黄巾の乱蜂起以後を広義での三国時代とするというのは、 いずれの出版物に基づく見解でしょうか? 一般的な中国史に関する工具書で、 三国時代を広義として黄巾の乱蜂起以後を指すと説明したものは管見の限りでは見当たりませんでした。

三国志演義の物語が黄巾の乱から始まり、司馬炎が晋を建てるところで終わることからすれば、 その時代を指して三国時代と言ってしまいたい方々や、そう誤解してしまっている方々の気持ちもわからなくもないのですが、 それはあくまで三国志に描かれた時代というべきもので、 歴史上の時代区分以外のなにものでもない三国時代と混同させるのは誤解という他ないように私は思います。

今回、曹操の陵墓が発見されたと発表がありましたが、 曹操を三国時代に活躍した英雄とする日本の記事もありました。 そういう誤解をこれ以上蔓延させないためにも、 広義では黄巾の乱蜂起以後を三国時代というとする説明に修正を加える必要があるのではないでしょうか。

記事全体としては、三国時代成立の経緯を説明するということなら、 あえて”広義”という言葉を用いずとも、後漢の戦乱以前の状況から説明する現状のままでよろしいかと思います。 いきなり広義というところをばっさり切ってしまうのも乱暴かと思い、 まずは根拠となるたしかな出典の提示をお願いし、もしそれが見つからないようでしたら、 広義としての三国時代をWikipediaルールとして許容しうるか話しあいましょう。 --Asian hobit 2009年12月28日 (月) 11:21 (UTC)[返信]

魏の建国[編集]

「220年に曹操が死に、後を継いだ曹丕はついに献帝より禅譲を受けて皇帝(文帝)となり、魏を建国した。」という一文があります。 曹操のページでは、「建安18年(213年)に董昭らの提案に従い魏公となり、建安21年(216年)に魏王に封じられ、後漢皇帝が治める帝国内の一藩国、つまり王国という形で魏を建国。」とあります。曹操のページの記述内容に従うならば、建安21年(216年)にすでに魏が建国されていることになります。--Rgesrtgesr 2012年2月2日 (木) 11:29 (UTC)[返信]

今日は何の日 5月22日「孫権が呉の皇帝に即位。三国鼎立が成立(229年 - 黄龍元年4月12日)」[編集]

「孫権が呉の皇帝に即位。三国鼎立が成立(229年 - 黄龍元年4月12日)」という記述に従うのであれば、最狭義における三国時代というのは229年(孫権が皇帝に即位)~263年(蜀漢の滅亡)ということになります。--240D:1:7900:7300:702B:A36E:5351:5D02 2019年5月22日 (水) 01:43 (UTC)[返信]