ノート:三国志演義

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「作品の影響」の節について[編集]

『三国志演義』は日本文化に限定しても、江戸期以降の小説・漢詩文・講談など多岐にわたり影響を与えた(「三国志」の項目などを参照)訳ですが、本節は吉川英治氏の小説や『反三国志』、コミック・ドラマ・ゲームの情報に終始しています。しかも「三国志」の項目と内容が重複しています。本節の存在意義自体が疑問に思われますが、いかがでしょうか。--219.126.200.184 2007年10月20日 (土) 11:52 (UTC)[返信]

とりあえず上記の項目に誘導させて頂きました。--219.126.200.185 2007年11月6日 (火) 15:55 (UTC)[返信]

満州語訳『演義』は武官向けの書物か[編集]

その根拠を寡聞にして存じません。例えば、金文京氏は『三国志演義の世界』(東方書店)や『三国志の世界 後漢・三国時代』(講談社「中国の歴史」・第4巻)において、『演義』満州語訳が世界最初の外国語版『演義』であることや、毛沢東が『演義』を戦略の参考にしたことなど指摘されています。しかし、満州語訳『演義』が武官向けに出版されたことまでは言及されていませんでした。--219.126.203.108 2007年11月7日 (水) 16:15 (UTC)[返信]

満州語訳『演義』刊行の動機やその用法について。
まず、順治7年(1650年)に刊行された満文『三国演義』の巻頭にドルゴンの諭旨が収められており、「此の書は忠臣・義賢・孝子・節婦の懿行を以て鑑と為すべし。又、奸臣の国を誤り、悪政の朝を乱すを以て戒と為すべし。文は粗糙と雖も、然るに甚だ益する処有り、応に国人をして此の興衰安乱の理を知らしむべきなり」とのことです。
また、『清史稿』額勒登保伝には、漢字を読めない額勒登保(1748年-1805年)が海蘭察(?-1793年)から「古の兵法を略知するがよい」と満文の『三国演義』を授けられて軍事に通暁するに至った旨の記事があります。
さらに、王嵩儒(1873年-?)の 『掌固零拾』に「本朝未だ関に入らざるの先、翻訳『三国演義』を以て兵略と為し、・・・」とあります(入関以前に満州語版『演義』が存在したこととなり、一般には順治7年初刊とされている事と齟齬を来たしますが、ここでは論じません)
満州語訳『演義』が兵法の教材とされた事例は確かに存在しますが、ドルゴンの諭旨からは『演義』が専ら武官向けに訳出されたとは解し難いのではないでしょうか。--219.126.200.110 2007年11月14日 (水) 11:33 (UTC)[返信]


項目名と定義中での用語の不一致[編集]

項目名は三国演義,説明の1行目では三国演義となっています.

  • 表記は一致させるべきだと思います.
  • 三国史演義とも表記するのでしょうか.もしそうならそのように.

調べきれないので指摘だけです. Hidee 08:44 2003年9月8日 (UTC)

初版を書いた者ですが、誤字ですね。ご指摘ありがとうございました。さっそく修正してくださった秀の介さんもありがとうございます。
ところで、他言語版で「三国演義」と表記されているのが気にかかっています。日本では「三国志演義」表記が一般的だとは思うのですが…。Safkan 19:44 2003年9月8日 (UTC)


三国志ノートページで三国志三国志 (歴史書)の統合についての議論が起こっています。内容的にこちらの記事とも関わりますので意見を頂けないでしょうか。Nukkie 2005年8月7日 (日) 00:50 (UTC)[返信]