ノート:兵法三十六計

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ノート:三十六計から転送)

個別の計について[編集]

本項目に「出典の明記」テンプレートを貼りましたが、本項目についてというよりも単独で立項された個別の計についてこの場で一括して修正や出典の提示を求める趣旨である旨ご了承頂ければ幸いです。

「三十六計」中の個別の計において、ノート:以逸待労ノート:借屍還魂で指摘させて頂いたように根拠不明の記述が目立ちます。個人で計の逐一を調べた上、出典を示したり修正を加えたりするには相当の労力が必要であるため、こちらでアナウンスさせて頂きます。--Сорасоуё 2008年3月16日 (日) 05:10 (UTC)[返信]

(追加)

--Сорасоуё 2008年10月19日 (日) 17:29 (UTC)[返信]

以上の各項目のノートで指摘させて頂いたように、『三十六計』のテキストから逸脱する記事や『三十六計』を参照し得ない日本史上の人物が登場する記事が多数見受けられます。『三十六計』に登場しない日中の逸話を『三十六計』と結び付ける事につき何らかの文献の根拠があるのであれば、その文献は参考文献としては不適です。また、何らの文献をも根拠としないのであれば、その項目は独自研究の発表に該当します。

例えば「借屍還魂」の項目では関東軍やジャイアント馬場の例が「近現代はイメージに合わない」という理由で削除された形跡があります。前近代の事象でイメージが合ったものを根拠なく付け足したようにも見受けられますが、それでは百科事典の記事としては問題があるでしょう。

各項目においては『三十六計』の逐語訳なり抄訳なりを掲載する事で十分と考えますが、いかがでしょうか。但し、直ちにこれを実行する用意はないため、以上の点を指摘させて頂くに留めます。--Сорасоуё 2008年10月23日 (木) 08:46 (UTC)[返信]


各計略の項目で、その計略が使われたとされる合戦などがwikiの項目として作られているなら、各計略のページに「この計略が使われたとされる事例」というような節を作って、それぞれのページにリンクさせてはいかがでしょうか?

また、日本の戦国武将が使ったとされるのはおかしい。という主張を各ノートでされているようですが、『三十六計』としてまとめられたのは明末だったとしても、それぞれの計略は『史記』『三国志(歴史書)』『晋書』などで登場するような内容ですので、各計略を独立したページで扱うならば、日本の戦国時代の各合戦のページなどにリンクするくらいの事はしてもよいのではないかと思います。

Carbucketty 2008年10月25日 (土) 14:29 (UTC)[返信]

ご意見ありがとうございます。確かに日本の戦国武将が中国の古典に親しみ、これを範として戦術・戦略を練ったであろう事は想像に難くありません。しかし、当の武将が「『(古典の書名)』の○×計を用いる」などと発言した事や、後世の史家が「武将なにがしの策は『(古典の書名)』の○×計に該当する」などと評価した事が信頼すべき史資料に記載されていない限り、どちらのご提案も賛成するには非常にためらわれます。
例えば、徳川家康が三方ヶ原の戦いで浜松城の門を開放した事はしばしば「諸葛亮の『空城計』を用いた」などと紹介される他、Wikipediaの家康の項目でも「妙計『空城の計』」「兵法三十六計の1つ『空城計』」とされていました。確かに『三国志』裴松之注が引く「雲別伝」にある趙雲の空城計らしき行動や、裴注で否定された「郭沖三事」中の孔明の空城計らしき行動を家康が採用した可能性は絶無ではないでしょう。
しかし、そもそも当の家康自身が浜松城の開門を計略として認識していたのか、信玄と命のやり取りをしている最中に『三国志』の注釈なり諸々の文献を想起した(できた)のか、という疑問があります(なお、日本における『三国演義』受容は林羅山の慶長9年の読書記録より以前には遡れないとの事なので、家康が『三国演義』を三方ヶ原以前に読んでいた可能性は低いでしょう)
また、三方ヶ原に参戦はせずとも当時の事件を間近に見聞できたはずの大久保彦左衛門は『三河日記』において、家康が城門を開放した事には一切言及していません。その他の徳川方の史料(書名失念)においても、浜松城の開門については「気勢を削がれないため、かつ敗残兵を収容するため」としか述べていなかったように記憶しています。要するに、家康と同時代の人物も後世の史家も浜松城の開門を計略として捉えていなかったように思われます。これを「空城計」として称揚したり、孔明と結び付けたりするのは講談ものや後世(というか近年)の娯楽色の強い書籍などの仕事ではないでしょうか。
このような理由から家康による浜松城の開門を「空城計」と呼ぶ事をためらっており、まして孔明や『三十六計』と結び付ける事には明確に反対の立場を採っています。これはその他の日本の武将の戦術・戦略と『三十六計』とを結び付ける事についても同様です。もし、後世の人物の行動がたまたま何らかの兵法に合致している事をもって「なにがしの行動は△□の計を採ったものである」と言えるならば、極論すれば「モハメド・アリの『キンシャサの奇跡』は『以逸待労』を採ったもの」と言う事も許容され兼ねません。
しかしながら、他の皆さんのご異論もあって然るべきと思います。また、以上のようにもっともらしい事を述べてみましたが、そもそも『三十六計』自体が誰がいつ撰したか不明である上、孔明の「空城計」を史実と断じていたり人名を所々誤るなど内容にもおかしなところがあり、文献としての価値がどれほどのものかという疑問がないでもありません。従って「『三十六計』に書かれていない事は絶対に載せるべきではない」と頑なに主張するのも野暮であるように思います。
今回のご提案をどうするかはこれからの議論に委ねることとして、以上の卑見を表明させて頂きます。長文にて失礼致します。--Сорасоуё 2008年10月26日 (日) 02:26 (UTC)[返信]


また出てきてしまいました。ご容赦ください。
さて、「この計略が使われた事例」ではなくて、「この計略が使われたとされる事例」と、わざと少しだけぼかして提案してみたのですが、お気に召さなかったようですね。申し訳ありません。


実は私も個人的には三方ヶ原の空城の計は「後からこじつけたんじゃないのぉ?」と思っております。
ただし、「空城の計を使った」という通説として認知されていて、しかも『空城の計』で『空城計』にリダイレクトされているので、やはり無視したり、『空城計』のページで否定するのはどうかなぁ?と考えております。(三方ヶ原の空城計を否定するならば、『三方ヶ原の戦い』のノートページで議論する必要があるでしょう)
どうしても『三十六計』とは切り放しておきたいとするならば、『空城計』のページを『空城計(兵法三十六計)』という形で限定した記事にして、三十六計とは別の『空城の計』というページを用意するべきではないでしょうか?(この場合、空城計以外の計略のページも同様にした方が良いとは思いますが)
一方、モハメド・アリのような事例は、何らかの書籍等で「モハメド・アリの行動は三十六計の以逸待労の戦略に合致する」というような記述がされていれば、(出典を明記した上で)許容されるべきだと考えます。同様に関東軍や馬場の事例でも出典が明示されれば表記しても問題ないでしょう。(ただし、wiki編集者が独自の判断で追加するのはNGだと考えます)


あと、本来なら当該ページのノートで主張するべきだと思いつつ、ついでなので此処で書いてしまいますが、
『苦肉計』のページにある、「現在では苦肉の策(くにくのさく)という言葉で〜」という部分は、黄蓋のエピソードと同様に三十六計とは関係ない記述になっているかと思います。黄蓋の記述が削除されて、現在の用法の記述が残っているのは整合性に欠けると思うのですが、いかがでしょうか?
そして、『苦肉計』のページの修正を私に振っていただきましたが、私の個人的な感覚としては「苦肉の策」は広義なもの、(三十六計の)「苦肉計」は狭義なものと感じていますので、私が手を加えると黄蓋のエピソードや現在の用法が中心の「苦肉の策」的な記事になってしまい、三十六計関係の記述が下がってしまうと思いますので、とりあえず「辞退させていただきたいなぁ」と。(それでもと仰るなら、手を出させていただくかもしれませんが)


最後に、私事ですが1週間くらい忙しいので、その間の議論参加は自粛するつもりでおります。もし、他の方の参加があったり、記事の修正を思い立ったりして事態が進展するようでしたら、私の事は気にせずにじゃんじゃん進めて下さいませ。
以上。長文、失礼いたしました。
Carbucketty 2008年10月27日 (月) 13:52 (UTC)[返信]
(コメント)個人的には記事に対する対応の差のように見受けられます。例えば“空城計”を徳川家康が使ったと言うのは大橋武夫『戦いの原則』に書かれており、「徳川家康が“空城計”を使ったと言う文章の出展は?」と問われればこの本を上げることができます。ただ、大橋氏は中国文学の専門家ではないので、三十六計を家康が知っていたと言うのは大橋氏の間違いかもしれません。しかし、「大橋氏が書いている」事もまた事実であり、この場合「家康が使ったとする書籍がある」と言う点に限定すれば事実となります。
『三十六計』の記事を「原典に準じた正確な記述」にするのか、「さまざまな事例まで書き込まれた汎用性の高い記事」にするのかと言う点から意見を求めてはいかがでしょう?--59.147.204.124 2008年11月8日 (土) 06:11 (UTC)[返信]

『三十六計』は明末清初にまとめられ、1941年に再発見されたとのことです(この書誌情報じたいを検証する必要があるようにも思われますが)。また、三方ヶ原の戦いは1573年、明の滅亡は1644年の事件です。大橋氏が「家康が『三十六計』を読んだ、あるいは聞き知っていた」という意味で「空城計を用いた」と述べられたのであれば、出典としての価値は著しく損なわれます。

また、「家康が『三十六計』にふれた」とする意図が大橋氏に無かったとしても、家康の行為を「空城計」と呼ぶ事がためらわれるのは上に述べた通りです(誰がいつ「空城計」と呼び始めたかについては三方ヶ原の一次史料や戦史研究の文献から後世の創作物に至るまで渉猟して検証する必要があると考えています。直ちに実行する用意はありませんが)。

「大橋氏が書いている」事が事実に違いないとしても、価値の疑わしい文献を出典として示す事は記事の価値を疑わしくするだけでメリットはないように思われます。『戦いの原則』は「兵書の至言をもとに、普遍的なビジネス・処世の知恵を探究した書」とのことであり、もともと出典としては不向きのようにも思われます。--Fish40 2008年11月9日 (日) 01:24 (UTC)[返信]

(追記)なお、本項目で参考文献として挙げられているものもどうやらその類のようです。その中には中国古典に造詣の深い方の著作もありますが、読者をつかむために原拠から離れた所でいろいろ工夫した「ビジネスに役立つ○×」の類を多く執筆されている人でもあり、同氏の『三十六計』もサブタイトルや書評を見る限り例に漏れないようです。やはり出典としては不向きと考えています。

以上、うるさい事をいろいろ申し上げましたが、この項目は私物ではないし正直なところ『三十六計』にはあまり関心をひかれず今まで成り行きでいじってきたに過ぎないので、どのように編集して頂いても構いません。しかし「さまざまな事例まで書き込まれた」記事にする場合には、出典が上のような文献であれば項目の価値を下げるだけであり、出典がないのであれば出典の欠如なり独自研究の発表なりのWikipediaのルールに抵触するはずです。--Fish40 2008年11月9日 (日) 04:50 (UTC)[返信]

各計略が独立したページとして作られていたのに、具体的な事例が「『三十六計』に記述されていない」という理由で削除されていたので「もったいないなぁ」と思ったのが、私の意見の発端でした。そもそも『三十六計』は古来からあった計略をまとめただけ(まとめた事は意義のある事だと思っておりますが)で、計略そのものを発案・創作したわけではないのですから、各計略のページが独立しているからには『三十六計』と直接的に関係がなくとも元々の計略を使用したとされる具体的事例の記述は許されても良いんじゃないかと思った次第であります。仮に原典に無いものは記述を許されないとするなら、各計略のページは今後発展することがないわけですから、この『三十六計』のページに統合した方が良いような気もいたします。
と、長々と書いてみたのですが、実は私自身が各計略に記述を追加したいと切実には思っていないので、特に追加や記事の復活の作業はしない事にします。(この点、大変お騒がせしました事を謝罪いたします)
ただし、「苦肉計」だけはちょっと問題有りな気がしておりますので、時間的に余裕がある時期を見計らって「苦肉の策」への一部転記を提案しようと考えております。その際にはノート:苦肉計にて御意見をいただけると嬉しく思います。
Carbucketty 2008年11月12日 (水) 10:20 (UTC)[返信]

〜逃げるに如かず[編集]

兵法三十六計そのものよりも、『〜逃げるに如かず』という慣用句の方が認知度が高いように思われ、またそこから『三十六計の中には逃走が含まれない』かのような誤認が広まっているように感じていますが出典捜索中につき追記を控えています。 そもそも語源からして不明瞭で、よく挙がる南斉書の王敬則の発言にしても『如かず』などとは言っておらず、誤解の主因と思われるこの変化がどこから起こったものか、文献を探しています。---- CorOk.a会話2020年3月5日 (木) 10:07 (UTC)[返信]

http://kotowaza-allguide.com/sa/sanjyuurokkei.html 「三十六計逃げるに如かず」は「三十六策走是上計」の日本語訳です。「走是上計」は走為上のことを指します。「是」と「為」は同じ意味ですから。--云彩之塔塔主会話2020年3月6日 (金) 10:43 (UTC)[返信]

言葉が足りませんでした。私が知りたいのは『三十六計逃げるに如かず』という誤解を招くフレーズを最初に使ったのは何処の誰なのだろう、ということです。挙げてくださったリンク先にある通り、これが翻訳であるならば「壇公の三十六策(のうち今の状況であれば)、走ぐるは是れ上計なり」などとなるはずで、逃げる『に如かず』では明らかに原意がねじ曲がっています。誤訳に近いものなのか、そもそも翻訳ではない文脈から出てきたものなのか……分からないなぁ知りたいなぁ、と。 CorOk.a会話2020年7月30日 (木) 05:10 (UTC)[返信]

あと、差し戻された『〜逃げるに如かず』の語源について。これはやはり本項目(檀公による兵法三十六計)ではなく南斉書列伝7の王敬則の発言に思えてなりません。(イマイチな例ですがご容赦ください)『金声玉振』という慣用句は孔子について表したもので孔子のように知徳に優れたさまを意味しますが、語源は孔子ではないですよね。本件も同様の構造ではありませんか? CorOk.a会話2020年7月30日 (木) 05:30 (UTC)[返信]

1。「是」は「である」の意味です。たとえば、「我是学生」の訳は「私は学生です」。 2。私の日本語は下手ですので、誤解があるかもしれません。でも、日中辞典によると、「如かず」と「上計」は似たような感じです。 3。『〜逃げるに如かず』の語源は王敬則の発言ではなく走為上です。走為上は兵法三十六計の一計です。--云彩之塔塔主会話2020年7月30日 (木) 12:34 (UTC)[返信]

し-か∘ず [2][0] 【如かず】 (連語) 〔動詞「如く」の未然形「しか」に打ち消しの助動詞「ず」が付いたもの。「…にしかず」の形で用いることが多い〕 (1)及ばない。かなわない。「百聞は一見に―∘ず」 (2)それにこしたことはない。…がいちばんだ。「三十六計逃げるに―∘ず」 「大辞林 第2版」より。「上」は「如かず」と同じ意味でしょう?--云彩之塔塔主会話2020年7月30日 (木) 12:39 (UTC)[返信]

ご返信ありがとうございます。こちらも誤解があるかも知れません。 ・語源について:三十六計に走為上が含まれることは承知しています。しかし兵法三十六計というのは、状況によって使い分けるべき戦法のリストであって、それぞれに優劣なんて無いのでは?『上と為す』というのは損害を抑えるといったニュアンス(無茶な戦いを続けることと比べれば逃げた方が良い)であって、他の三十五計と比べて走の方が上であるなんて評価は、兵法三十六計の走為上には含まれませんよね。対して、『〜逃げるに如かず(走是上計)』は、他の三十五計と比べています。これは王敬則の発言でしょう? CorOk.a会話2020年8月7日 (金) 07:05 (UTC)[返信]

他の三十五計と比べて走の方が上であるという評価は、兵法三十六計の走為上には含まれます。走為上は最後の一計です。--云彩之塔塔主会話2020年8月15日 (土) 02:34 (UTC)[返信]