ノート:ロシア社会民主労働党

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流用についての懸念[編集]

現在の記述はHannahさんが2005年10月9日に書いた最初の版と本質的に変わっていませんが、Л・マールトフ『ロシア社会民主党史』とE・H・カー『ボリシェヴィキ革命』をうまく混ぜ合わせたもののようです。例えば「党の創設」という項の冒頭部分。

1897年3月に党創立大会として招集されたキエフ協議会が失敗してから、ブント中央委員会の参加を得て、1898年3月1~3日にミンスクで秘密裏に社会民主主義者の大会が開かれた。参加したのはブントから3名、非合法新聞『労働者新聞(ラボーチャヤ・ガゼータ)』を出していた南部グループから2名、ペテルブルク・モスクワ・キエフ・エカテリノスラフから各1名の計9名の代表たちである。大会ではこれらの諸都市の「闘争同盟」はロシア社会民主主義労働党に統合することになり、各組織はその委員会と称することになった。『労働新聞』は党機関紙となる。ブントのクレメール、ペテルブルクのラトチェンコ、南部グループのエイジェリマンが中央委員会に選出され「党宣言」の発行が委任され、ピョートル・ストルーヴェがその作業を担当した。

これはマールトフの『ロシア社会民主党史』が元になっています。

1897年の企て〔1897年3月、党創立大会として召集されたキーエフ協議会〕が失敗してから、ブント中央委員会(クレメール、コソーフスキイ、コペリゾーンなど)の参加を得て、秘密裡に社会民主主義者の大会が1898年2月27日〔3月1-3日が正しい〕にミーンスクで開催された。ブントからクレメールとコソーフスキイ〔クレメール、A・ムトニーク、Ш・カッツが正しい〕、その時までに二号の非合法新聞『労働新聞(ラボーチャヤ・ガゼータ)』を出していた南部グループからB・エイヂェーリマンと〔A・ヴィグドールチク〕、ペチェルブルグからC・ラトチェーンコ、エカチェリーノスラフからペトルセーヴィチ、モスクワからペラジッチ〔A・ヴァンノーフスキイが正しい〕、キーエフからチェースレル〔П・トチャープスキイが正しい〕が参加した。大会ではこれらの諸市の「闘争同盟」はロシア社会民主労働党〔大会が決定した党名はロシア社会民主党である〕に統合することとなり、各組織はその委員会と称することとなった。『労働新聞』は党中央機関紙となった。選出された中央委員会〔クレメール、ラトチェーンコ、エイヂェーリマン〕に党「宣言」の発行が委任され、この作業はП・Б・ストルーヴェが担当した。(32-33ページ、〔〕内は訳者によるもの)

このあとに「党宣言」の特徴についての指摘が続きます。

その党宣言は

  1. 「共産党宣言」に確言されたブルジョア民主主義革命とプロレタリア社会主義革命という2つの段階
  2. ロシアのブルジョアジーはそれ自身の革命を遂行する能力がなく、国家行政への参加、言論・出版・結社・集会の自由という課題は、ロシア・プロレタリアートが実現しなければならないこと

を指摘していた。

これはカーの『ボリシェヴィキ革命』が元になっています。カーは「党宣言」からの引用に続けて次のように書いています。

このように宣言は、ちょうどそれより50年前の『共産党宣言』のなかに確言されていた革命の二つの段階、すなわちブルジョア民主主義革命とプロレタリア社会主義革命とを率直に受け入れたのであった。それの偉大な功績は、それが、ロシア革命における基本的なジレンマ、すなわちロシアのブルジョアジーにはそれ自身の革命を遂行する能力がなく、その当然の結果としてブルジョア民主主義革命の指導においてロシア・プロレタリアートの果たす役割が拡大することをはじめて指摘したことであった。(9ページ)

それぞれ比べてみると、基本的な骨格は同じで、文章表現もそのままの部分が多いことが分かります。参考文献として挙げられているとはいえ、著作権の観点からは問題があるように思えます。--Kazhik 2007年10月25日 (木) 12:03 (UTC)[返信]

政党のテンプレートを削除しました[編集]

政党のテンプレートを削除しました。間違いだらけで、修正するのも難しいためです。

  1. 「ボリシェヴィキ党党首」がレーニン、「メンシェヴィキ党党首」がマルトフが書かれているのはおかしい。ボリシェヴィキとメンシェヴィキは分派であって党ではなく、当然「党首」と呼ばれるべき役職もない。
  2. 前身政党が労働解放団になっているが、労働解放団は1898年の創立大会に参加していない。
  3. 解散年月日として1903年と1918年が挙げられているが、どちらの年にも党は解散していない。1903年に起こったのは分派の形成、1918年に起こったのはメンシェヴィキのソヴィエトからの追放。
  4. 本部所在地がサンクトペテルブルクになっているが、党の存続期間のほとんどにおいて指導部は国外にあった。--Kazhik会話2018年3月25日 (日) 06:59 (UTC)[返信]