ノート:マリア・フォン・トラップ

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マリア・アウグスタ・フォン・トラップ(婚前の名前:マリア・アウグスタ・クチェラ)の記事に 「生まれてすぐに母を亡くしたマリアは、父の手で親戚に預けられたが、その父も9歳のときに失った。」 とあります。

英語の記事には「7歳の誕生日前には孤児になっていた。」 She was an orphan by her seventh birthday. とあり、ドイツ語の記事では

「母親はマリアが生まれて数日後に亡くなり、父親もその3年後に亡くした。」 Ihre Mutter starb wenige Tage nach der Geburt, ihren Vater verlor sie drei Jahre später. とあります。

英語文は「7歳の誕生日には既に孤児であった」というのですから、3歳で孤児になっていても矛盾はないですが、「9歳のときに」父親が亡くなったというのは、英語文ともドイツ語文とも噛みあいません。どなたか、確かな記録(マリア・アウグスタの父親が属していた教会の洗礼・死亡記録など)をお持ちでしょうか? 確かめられない場合には、記述を差し障りの無いように書き換えてはいかがでしょうか。

ちなみに、出生、生い立ちに関する書き出しはドイツ語文では: Sie wurde als Maria Augusta Kutschera in einfachen Verhältnissen in Wien geboren. Ihre Mutter starb wenige Tage nach der Geburt, ihren Vater verlor sie drei Jahre später. Danach wuchs sie bei ihrer Großmutter und bei einem Vormund auf. 「彼女はウィーンでマリア・アウグスタ・クチェラとして簡素な生活程度の家庭に生まれた。母親は出産の数日後亡くなり、彼女は父親もその3年後に失った。その後は祖母のもと、そしてひとりの後見人のもとで育った。」 とあり、 英語文では: Maria Kutschera was born in 1905 in Austria on a train going from her parents' village in Tyrol to a hospital in Vienna. She was an orphan by her seventh birthday. 「マリア・クチェラは1905年、オーストリアで生まれる。彼女の両親が住んでいたチロル州の村からウィーンの病院へ行く列車内であった。彼女は7歳の誕生日になる前には孤児になっていた。」 というような内容ですが、臨月の母親がウィーンから遠い(インスブルックからでも今の特急列車で5時間かかります)チロルからウィーンの病院へ、というのは、手記やインタビューにでも基いているのでしょうか?

トラップ艦長の前妻、Agathe Whitehead(魚雷の発明者Robert Whiteheadの孫)も子供の出産後まもなくして亡くなったそうです。彼女の場合には、子供の誰かがかかっていたしょう紅熱が産後の彼女にうつって亡くなったとあります。

マリア・アウグスタは、継子たちにMutterムッターと呼ばれていたそうです。Agatheは実子たちにMamáママーと呼ばれていたので違いをつけるためだったそうですが、インタビューでは、継娘のヨハンナが姉のマリア(マリア・フランツィスカ)との勘違いが出ないように、という理由から「継母Stiefmuter」とかGustl (グストル、アウグスタの縮小形、呼称)という呼び名を使っていたそうです。

この記事を読んだきっかけは、マリア・フォン・トラップ(Agatheの3番目の子供、Maria Franziska)がトラップ邸に滞在中だというニュースがあったからです。ザルツブルクではいまSalzburger Festspiele音楽祭・演劇祭が開催中ですが、94歳のマリア・フランツィスカがパプア・ニューギニアでのミッション勤務中に養子にした若者と共に、これからホテルになる運命のトラップ邸の彼女の子供部屋に招待されて訪墺中です。とてもお元気で、65歳くらいにしか見えない・聞こえない、うらやましいような活発さでインタビューに答えていました。

--aiueo_aeiuo 2008年7月30日 (水) 07:56 (UTC)[返信]