ノート:ボンベイ (映画)

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IPユーザーによる「ヒンドゥー的な視点」関連の記述[編集]

同一人物と思われるIPユーザー(210.149.120.67、および210.149.120.70)によって二回にわたり書きこまれた、以下の記述を一時削除しました。

作品はヒンドゥー、イスラム双方の立場に立って作られており、どちらか一方を擁護したり、批判するような作りにはなっていない。しかしどちらかと言えば、ヒンドゥー的な視点でイスラムが語られている。例えば、イスラム教徒の花嫁の父親が、イスラムとヒンドゥーの違いを、血の違いと捕らえていたり(両者の違いは、血統や民族の違いではない。あくまで信仰の違いである。)イスラム教徒の妻が、イスラムへの改宗を考えるヒンドゥー教徒の夫を思いとどまらせたり(イスラムでは、異教徒がイスラムに改宗する事を強く奨励している。改宗を思い立った人間を止めるような事はしない。)また、イスラム教徒の妻がアッラーとヒンドゥーの神、双方の加護があるようにと言ったり(イスラム教は複数の神のうちの一人を信仰する宗教ではなく、アッラー以外には神は存在しないと説く宗教である。)ヒンドゥー教的な視点でイスラムが捉えられている。これは監督も、映画を演じている俳優もヒンドゥー教徒であるためである。

削除の理由として、記述者の主張する「ヒンドゥー的な視点」なるものの論拠が乏しく、それらと結論との間の因果関係もあまり明白でない(というより、やや論理の飛躍があるように思われる)こと。それに付随して、前述の理由ゆえにあくまで個人的見解の域を出ておらず、ウィキペディアの記述として不適切かと思われること。以上が記述差し戻しの理由である。以下、各論拠に焦点を絞って詳しく説明。

  • 論拠①父親の「血の違い」の話:これはあくまで比喩表現であって、登場人物が両宗教信徒の間の差異を信じている(からこそ、主人公たちの結婚に反対する)ことを明示するセリフにすぎない。映画全体を通してヒンドゥー/ムスリム間の、科学的な意味での「人種」的差異が主張されているわけではない。
  • 論拠②妻が夫の改宗を思いとどまらせる&論拠③妻が双方の神の加護を祈る:これらどちらの点についても、あくまで宗教的な「原則」が根拠に挙げられているが、インド社会における(もちろん映画なので「フィクション」だが、インドの観衆にとって「実際にあり得なくない」という程度に設定された作り話という意味で)「実態」や、この映画全体における宗教融和の主張を無視したまま、劇中の個別描写をあげつらって、監督や俳優がヒンドゥー教徒であることに起因する「理解の限界」(「偏見」なり「誤解」とまで言わずとも)と断定してしまうのは、映画の趣旨やインド社会の実相について理解がきわめて浅く、かつ杓子定規な見解だと断じざるえません。

蛇足ながら付言すれば、制作側(とくに監督)がヒンドゥー教徒であるにせよ、インドでの日常生活においてイスラーム教徒と交流する機会は日本よりも格段に多く、またその距離感も比較にならないほど身近なものであるため、イスラームについて論拠①②③で持ち出された「原則」程度の前提知識なら当然備えていたと想定するほうが自然。また、仮に「原則」に従って②③をしないとするなら、設定上むしろ不自然だと思われる(両親の反対をおしきってまで宗教間婚をしたこと、双子の子供にそれぞれの宗教信徒に特徴的な名前をつけたこと、などの諸点との整合性が保てなくなる)。--チロチロ 2010年5月25日 (火) 14:07 (UTC)[返信]