ノート:ヘロデ大王

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参考文献の挙げ方とイドマヤ(エドム)[編集]

閲覧者の参考に資するため、 フラウィウス・ヨセフス著 『ユダヤ戦記』 を挙げたいのですが、どのようにすればいいのか判りません。
因みにイドマヤ人のイドマヤ(エドム)ってどの辺? だれか自作の地図をUPしてくれい。--以上の署名のないコメントは、221.30.102.1会話/Whois)さんが 2005-03-31 21:44:13 (UTC) に投稿したものです。

ヘロデは極悪な王だったのか[編集]

ヘロデが本当に極悪な王だったのかどうか? 一方的な視点でない、記述が望まれます。--Xριστoς 2006年4月9日 (日) 06:46 (UTC)[返信]

どこが「一方的な視点の」記述かを具体的にご指摘いただければご協力できます。ご教示願えませんでしょうか。私の目から見て一方的だと感じたのは幼児虐殺とヘロデの残虐性を事実として結びつけていた点です。これについては修正しました。--dakusui 2006年8月17日 (木) 22:33 (UTC)[返信]

ヘロデの没年に関してを削除しました。[編集]

書き込まれた方には申し訳ないと思ったのですが、以下の記述を削除しました。

ヘロデが亡くなったのは、ヨセフスによれば、ローマ人によって王に任じられてから37年後,エルサレムを占拠してから34年後であるとしています。
そうであれば前2年頃ということになります。
ヨセフスによれば,ヘロデは月食後ほどなくして,過ぎ越しの前に死にました。
西暦前4年3月11日(3月13日,ユリウス暦)に月食があったので,ヨセフスが述べているのはその月食だったと結論して、ヘロデが亡くなったのは前4年であると一般に考えられています。
ところが、西暦前1年にも,過ぎ越しの3か月ほど前に皆既月食がありました。西暦前1年の皆既月食は1月8日(1月10日,ユリウス暦)に起きたもので,伝承によるヘロデの死の日付,つまりシェバト2日の18日前に当たります。
さらにイエスが前2年秋頃生まれ、ヘロデは赤子のイエスを殺害しようとたくらんだことが聖書に記されています。
ヨセフスの年代、聖書の記述の整合性からみて、前4年ではなく、前1年にヘロデが亡くなったと考える方が、理にかなっていると思われます。

理由は以下です。

  1. 文体が百科事典にふさわしくないこと。
  2. 「西暦前4年3月11日の月食」とヨセフス・フラウィウスの月食への言及を結び付けているが、そもそも月食は年に2回程度はあるのでそれをもとにヘロデの没年を論じる意味が分からなかったこと。
  3. イエス殺害のために行ったとされる幼児虐殺の逸話はキリスト教側の主張(福音書の記事)であって現実の出来事とみなす根拠は乏しいこと。
  4. 聖書にはイエスの生年は直接は記されていないこと。
  5. 「前1年にヘロデが亡くなったと考える方が」とあるが、その理由が読み取れない(ヨセフスの最初の記述によれば前2年になるのでは?)こと。
  6. 掲載された没年についての議論が基づく資料が明記されていないこと。

です。 再度加筆する際には、上記を踏まえ記述を改めていただければと存じます。--dakusui 2006年8月17日 (木) 22:33 (UTC)[返信]

数年前の議論ですが、ヘロデ王の享年に推測方法について詳しいデータを見つけたので補筆させていただきます。
エミール・シューラーの『イエス・キリスト時代のユダヤ民族史 II』(小河陽訳、株式会社教文館、2012年。ISBN 978-4-7642-7352-8)P.58註165に、
  • ヨセフスの書に「ヘロデの統治は任命されて(西暦紀元前<以下BC>40年)から37年間、エルサレム征服(BC37年)から34年間(『古代誌』第XVII巻8章1節、『戦記』第I巻33章8節)」とあり、端数による誤差を考えてもBC3年(40-37=3)の前後。
  • 候補として選ばれる年の内エルサレムで月食が観測可能なのは、BC5年9月15日・BC4年3月12-13日・BC1年1月9日。(月食は年2回ありますが、月が見えない時が結構あるので毎回見れるわけではない。)BC3・2年の月食はエルサレムで観測不能。
  • ヨセフスは「『ヘロデは過ぎ越し祭(通常現在の暦で3〜4月)の少し前に死んだ』と書き残している(『古代誌』第XVII巻9章3節、『戦記』第II巻1章3節)ので、秋であるBC5年の月食は無理があるため除外。
  • ヘロデの息子たちについて「アルケラオス(在位期間10年間<『古代誌』第XVII巻13章2節>で紀元後(以下AD)6年解任<ディオ『ローマ史』第LV巻27章6節>)」、アンティパス「解任がカリグラの治世第2年目(AD39年)」で「アンティパスが在位43年目に発行した貨幣が発見されている(『ユダヤ民族史 II』P83参照)」のでBC1年に父から領地相続では統治期間が合わない。
以上より、「BC4年3月12-13日に月食が起き、その後4月11日(この年のニサンの15日)の前にヘロデ死亡。」とするのが妥当であるという計算だそうです。--カーラ・ミーキタ会話2018年10月28日 (日) 10:39 (UTC)[返信]

改名提案:記事名「ヘロデ大王」と「ソロモン王」の称号の除去[編集]

済み議論を経て当記事の改名提案は取り下げられました。曖昧さ回避ページとなっていた記事「ソロモン」は2008-09-25に「ソロモン (曖昧さ回避)」へ移動され(特別:差分/21975450)、2008-10-06に記事「ソロモン王」⇒「ソロモン」に改名されました(特別:差分/22176505)。--Yumoriy会話

ヘロデ大王」「ソロモン王」はそれぞれ記事名に君主号が付いており、これらを外した記事名への改名を提案。また、「ヘロデ」「ソロモン」はいずれも曖昧さ回避ページとなっているが、いずれも「ヘロデ」の名称では「ヘロデ大王」、「ソロモン」の名称では「ソロモン王」が最も著名と考えられ、これらを「ヘロデ (曖昧さ回避)」、「ソロモン (曖昧さ回避)」へと改名することも合わせて提案します。--NINAME 2008年9月18日 (木) 15:23 (UTC)[返信]

  • (コメント)申し訳ないですが、専門外ということもありヘロデ・アンティパスなる人物は余り知らず、ヘロデ大王(神殿の方)とどちらが著名かは図りかねます。フラウィウス・ヨセフスプルタルコスらを見る限りでは、個人的な考えですが、ローマ史上は「ヘロデ大王」の方が多くの痕跡を残したように思います。ユダヤ史やキリスト教史では別なのかもしれませんが。それはさておき、「大王」「王」という君主号が記事名にあるのは拙いと思うだけであり、アンティパスとの区別化で、別に「ヘロデ (古代ユダヤの王)」「ヘロデ (紀元前1世紀の王)」とかでも別に構いません(その場合は「ヘロデ」は従来通りに「曖昧さ回避ページ」)。その辺は如何でしょうか? --NINAME 2008年9月20日 (土) 14:34 (UTC)[返信]
「大王」がそのまま使われている例にはアルフレッド大王があります。--Extrahitz 2008年9月21日 (日) 02:20 (UTC)[返信]
  • (インデント1つ戻し)ユダヤ語版は「ヘロデ」ですが、英語・フランス語・イタリア語・スペイン語・中国語他,,大部分は「ヘロデ大王」となっているようですね。個人的には「ヘロデ大王」の表現に違和感を持ちますが、「ヘロデ大王」は取下げ、「ソロモン」の改名提案だけ続行することとします。--NINAME 2008年9月21日 (日) 04:00 (UTC)[返信]