ノート:フランソワ・トリュフォー

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バザンとの出逢いと「カイエ」[編集]

「2006年11月1日 (水) 02:41版」では、

ろくに学校にも行かず映画館に入り浸るうちに、映画評論誌「カイエ・デュ・シネマ」の主宰者だったアンドレ・バザンと出会い

とあり、この文脈では、学校をサボタージュしている時代に「カイエ」編集長バザンと出逢ったように読めませんでしょうか。

1946年、トリュフォーは14歳で学校教育とは決別し、積極的にシネフィル生活を始め、翌年にはシネクラブを組織しはじめます。また、バザンが「カイエ」を創刊するのは1951年4月のことで、バザンがトリュフォーに仕事を斡旋するのはその前年1950年です。「カイエ」以前にトリュフォーはバザンの世話になっております。ちなみに、トリュフォーが「カイエ」に初めて執筆したのはさらに後の話で、1953年、トリュフォー21歳のときです。このあたりの記述は、仏語版Wikipediaフランソワ・トリュフォーの項をご参照ください。

また、バザンらが中心になって開いた「第一回呪われた映画祭」(1949年)に17歳のトリュフォーは、18歳のゴダールとともに参加しており、パリから遠く離れたビアリッツに行くわけですが、トリュフォーとバザンの出逢いはこの前後であるはずです。

誤読を導かぬよう年号記入、細部補強のみで、表現はほぼそのままを維持しようと努めました。--Kmrt 2007年4月11日 (水) 16:59 (UTC)

映画作家デビューと結婚、そしてバザン[編集]

「2006年11月1日 (水) 02:41版」では記述されてなかった、1954年の映画作家デビューや1956年のロッセリーニへの弟子入り、1957年のトリュフォーの結婚について、加筆しておきました。混乱を呼ばないために、結婚の1年後に死去したバザンの記述と同じパラグラフにならないように配慮いたしました。

また、クロード・シャブロルは、エリック・ロメールの『獅子座』のモティーフになったように、巨額の遺産を元に製作会社を設立しました。そこで、『美しきセルジュ』をつくり1958年公開、『大人は判ってくれない』の撮影開始、1959年『いとこ同志』のほうがヒット、というのが正しい順番です。『セルジュ』のヒット資金で、というのは「?」ですがそのままにしました。ちなみに『いとこ同志』は確かにヒットし、その利益で製作したのが『獅子座』です。 --Kmrt 2007年4月11日 (水) 16:59 (UTC)

『大人は判ってくれない』へのシャブロルのAJYMフィルム出資の根拠は見当たりません。同作は、トリュフォーのキャロッス社と、トリュフォーの義父の会社の子会社SEDIFの共同出資作品です。キャロッス社とAJYMフィルムとの共同出資作品である、ジャック・リヴェットの処女長編『パリはわれらのもの』や、『いとこ同志』のヒット利益でつくったロメール『獅子座』と混同したのでしょうか。よって、前回そのままにした表現をコメントアウトしました。--Kmrt 2007年4月13日 (金) 04:12 (UTC)

ゴダールとの関係[編集]

ゴダールとの関係は確かに険悪であったようですが、死後に編纂されたった4年で出版された書簡集の序文は感動的であり、また、その翌年(1989年)にゴダールが製作を開始した『映画史』にも、幾度となくトリュフォーの写真やことばが引用されています。「追悼文を著すこともなかった」の一文で終了することは、ゴダールとの関係を述べるに足りないと思い、序文の最後のことばを引用しました。--Kmrt 2007年4月11日 (水) 16:59 (UTC)