ノート:バイダル

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疑問点[編集]

  • (コメント依頼、削除依頼から。)私はこの主題については完全に門外漢であり、予備知識がないということを最初に断っておきます。
en:Baidar(oldid=665857358)の翻訳ということになっていますが、英語版といくつかの相違があります。(以下に示す斜体英文は同版からの引用です。)
  • チャガタイ6男」 - 英語版は「second son(2番めの息子)」(ただし無出典)。この記事の初版[1]では「3男」。この編集[2]で「6男」に書き換えられています。チャガタイでは6男とあり、5人の兄の名前まであります(ただし無出典)。どれがどういう根拠なんでしょう。
  • 削除依頼でも指摘がありますが、翻訳元の「the Mongols wasted no time ・・・They bypassed the citadel ・・・」は、「時間を無駄にするかたちとなり、」ではなく、「砦攻略に時間を費やすことをせず、砦を迂回して・・・」という意味でしょう。
  • 3月18日の件 - おそらく「 (not present at the battle) 」を「(合戦には至らなかった)」と訳したのだと思います。しかし、これは、軍を率いるBoleslaw Vが、この戦いには姿を見せていない、ということでしょう。en:Battle of Chmielnikをみれば会戦が3月18日に起きたことになっており、ポーランド側の指揮官は Włodzimierzなる人物です。会戦が起きていないのであれば、次の「The Poles were heavily defeated (ポーランド軍は大敗し)」以下につながりません。
  • 最後の方の「The destruction in Poland, Silesia and Moravia was all much of the same kind.」は、私にはよくわかりませんでした。おそらく前半は<「ポーランド・シレシア・モラビアの」破壊>(A,B,and C)だと思います(was であってwereではない。)。 後半は「the same kind」がよくわからない。「同類=人間」?人間のall muchを破壊=ほとんどを殺した、でしょうか?「ポーランドとシレシアとモラビアはほぼ同じように破壊された」とは違うのかなあ。史実がわからないのでここはちょっと私にはわかりません。
  • 記事末のLeo de Hartog (2004)の文献のリンクはこうすると[3]、少し読めるようになります。しかし、肝心のバイダルに関する記述は165ページと、172-173ページあたりにあり(検索するとそのページにあることがわかります)、そこは非表示なので結局はあまり変わりません。
  • 唯一の出典(チェコ語)のURLはいわゆる「信頼できる情報源」にあたるのか私にはわかりません。チェコ語は読めませんが、いちど機械翻訳で英訳すると、かなり読めるようになります。それによると、7パラグラフ目に「Bajdar」(バイダル)の名が出てきますが、「Sternbergがバイダルを破った」というような話のなかであり、出典がつけられた部分とは対応しません。「via Brno」を頼りに「Brno」が出てくる場所を探しても、6パラグラフ目にぜんぜん違う文脈で出てくるのみ。どうも3パラグラフ目あたりに1241年の冬頃のことが書かれており、このURLが示すのは「バトゥの本隊がハンガリーにいた」ことだけじゃないかなあという感じがします。--柒月例祭会話2015年11月20日 (金) 07:55 (UTC)[返信]
  • (追記)上記の疑問点に関し、一部再訳を行いました。
  • 最後のほうの「Although Bohemia remained unmolested, Moravia had much to endure. 」も難しいなあと感じました。改稿前は「ボヘミアは未占領のままであったが、占領した土地を守のにはモラヴィアだけで十分」と、「モンゴル目線」でした。「unmolested」は「safe」といようなニュアンスで「ポーランド目線」です。「endure」は「苦しみに耐える」というようなニュアンスで、これもポーランド目線だろうと考えました。「ボヘミアは安泰だったけどもモラヴィアは大変な目にあった」ととると、次の「破壊がどうの」にも繋がるように思います。--柒月例祭会話2015年11月20日 (金) 09:06 (UTC)[返信]
  • コメント 蒙古史は素人ながら、「チャガタイの子」の部分を直してみました。
あと、The elder boys campaignは、中国語の「長子征西」(有力王家の長男を主力としたヨーロッパ遠征)のことで間違いないでしょう。ただ、出典は何を選んだものか。--Ashtray (talk) 2015年11月21日 (土) 10:36 (UTC)[返信]
  • ありがとうございます。The elder boys campaignのところは、私の訳は何も根拠が無いテキトーなものでしたので、ひとまず「長子征西」に置き換えました。疑うわけではなく恐縮ではありますが、ひとまずnoticeの意味で「訳語疑問点」についてはそのままにしてあります。(出典がないという意味で「要出典」のほうがいいのかもしれませんが、それは記事全体にもいえることなので。)
厳密には、いまの文章だと「モンゴルでは長子征西という」という趣旨になってしまっていまして、不正確ですよね。中国語≠モンゴル語ですし。いずれにしろ全体に出典に乏しいので、出典が出てきた時に「中国では長子征西という」とかにすればいいので、暫定的に手付かずにしました。--柒月例祭会話2015年11月23日 (月) 03:09 (UTC)[返信]
  • 今更ではありますが「The elder boys campaign」の出典が分かりましたので一応報告しておきます。『モンゴル秘史』にはモンゴル語音を直接漢字転写した音訳、それを逐語訳する傍訳、完全な中国語に直した総訳、という三つの表記があります。その内「総訳」にのみバトゥの征西を記す箇所で「長子出征」とあるのが、出典のようです。但し、この文は音訳・傍訳だと合哈(aqa)・長になっていてどうも「長子」は意訳みたいなんですよね。そこら辺が日本語文献でこの表現が用いられない理由なのかな、と。
で、「長子征西」の方なんですがこちらは今のところ出典を見つけてません。但し、中国語による古典的元朝史概説書、韓儒林氏の『元朝史』(人民出版社、1986年)には「蒙古征西」の節に「長子出征」という項目があるので、これが混同されて「長子征西」という呼称が使われているのかもしれません。--カラ会話2018年1月21日 (日) 01:49 (UTC)[返信]