ノート:ジョアン・マテウス・アダミ

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記事の改変予定について[編集]

『猪苗代城の内紛と長崎での殉教』の後半の部分において「1630年にアダミは山を会津に残し」とあるが、誤りである。山ジョアンは1629年に会津で捕縛され、江戸送りになっている。アダミに関する記事を作成中、一つにはアダミが山を会津に残して失踪する理由が無いこと、二つにはアダミが長崎に向かうのに、なぜ危険を冒して江戸へ行ったのかという疑問が残った。会津から長崎に向かうのなら、日本海沿いに南下するのがはるかに安全なルートと考えられたからである。しかし、それは記事『山ジョアン』を作成する過程で明らかになった。1630年にアダミは最後の危険を冒して山が捕えられている江戸へ向かったのである。

猪苗代の土津(はにつ)神社近くのセミナリオ跡と伝えられる場所には殉教者碑があり、その裏山に登るとなだらかな丘陵地帯が猪苗代湖へと続くのが見える。それは美しい丘陵が地中海へと続くアダミの故郷、シチリアのマツァーラを思い起こさせる景色である。そんな写真資料も含めて、ウィキペディアに負荷を掛けないように十分な再考を行ったうえで一括編集をしたいと考えている。英語版にも若干の誤記があり、同時に改変を行う予定である。長崎のキリスト教史に対して、東北のキリスト教史はなかなかスポットのあたらない分野であり、編集協力者は歓迎したい。--Yoshisato会話2014年8月6日 (水) 14:46 (UTC)[返信]