ノート:サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

聖ジョヴァンニ礼拝堂は『神曲』地獄篇にも出てきますね。

こゝに我見しに側にも底にも黒める石一面に穴ありて大きさ皆同じくかついづれも圓かりき
思ふにこれらは授洗者の場所としてわが美しき聖ジョヴァンニの中に造られしもの(未だ幾年ならぬさき我その一を碎けることあり
こはこの中にて息絶えんとせし者ありし爲なりき、さればこの言證となりて人の誤りを解け)より狹くも大きくもあらざりしなるべし

引用は地獄篇第十九歌の13-21行より。要するに、地獄の第八圏第三マーレボルジェにおいて聖遺物を売買したシモニアたちが容れられて火にくべられている岩穴が、洗礼の水盤と等しい大きさであるとのことです。註釈によれば、かつてここ聖ジョヴァンニ礼拝堂に集った群集が争い、そのさなかに小児が洗礼を授ける大理石の水盤にはまってしまった。あわや溺れ死にかけたところをダンテが斧をふるってその水盤を破壊し、子供の命を助けたそうです。しかしその後、水盤を壊したことで批難されたためか、わざわざ『神曲』中でそのことを弁解しています。エピソードとして入れようかなと思ったんですが、記述のバランスを崩しそうなのでとりあえずここに。--Charon 2004年11月19日 (金) 14:57 (UTC)[返信]

入れようと思ったんですが、ちょっとTribia気味ですかね。。地獄篇での言及はちょっと無理やりですが節の冒頭記述におしこんでみました。それはそうと、この項目を秀逸候補に推薦してみようと思うのですが、いかがでしょう。--Aphaia 2005年8月4日 (木) 13:08 (UTC)[返信]
とくに反対もないようなので、のせてみます。--Aphaia 2005年8月7日 (日) 14:25 (UTC)[返信]
こんにちは。Toki-hoです。こちらの項目どんどん充実していてすばらしいと思いました。(wikipediaならではの愉しさ感じております^^)ところで、ふたつばかり質問です。瑣末なことかもしれないので放置いただいても結構です。
  1. 【1.1 歴史(第3パラグラフ終わりから第4にかけて)】ジョットが亡くなったのは1337年(これはジオットの項その他で確認)、それで中断されていた工事がその2年後に再開されたのが1355年とよめてしまうのですが、この前後関係はいかがなのでしょうか。
  2. 【2.2鐘楼の装飾】「装飾的な意味しかもたない破風」なのでしょうか、それとも「装飾的な意味しかもたない採光窓(つまり窓としての役目をなしていない)」かどっちでしょうか。この文章でしたらどちらにもとれるので。
自力でも調べてみますが、当面上記の疑問がのこります。よろしくお願いいたします。Toki-ho 2005年8月18日 (木) 09:50 (UTC)[返信]

分割報告[編集]

この記事はIP:120.74.101.28会話 / 投稿記録 によって、ジョットの鐘楼([1])とサン・ジョヴァンニ洗礼堂([2])に分割されました[3]分割提案は出されていませんが、履歴継承には配慮されているようです。--Frozen-mikan 2011年9月23日 (金) 08:00 (UTC)[返信]