ノート:サイフッディーン・ガーズィー
この記事は2008年7月28日に削除依頼の審議対象になりました。議論の結果、削除となりました。 |
誤記・典拠記述との不一致があります
[編集]参考文献として挙げられている「ザンギー朝二政権分立期の研究―モスル政権の動向から」著者の柳谷あゆみです。 現在(2012年11月27日)掲載の本稿記述は、誤記が多く、また参考文献とされている拙稿とは異なる記述がかなり見られます。日本語として意味の通らない文章も多く、現行の記述の参考文献に挙げられるのは大変不本意です。 恐れ入りますが、参考文献から拙稿を削除いただくか、下記について確認・修正をご検討くださいますようお願いいたします。以下、カッコ内に事象の出典を記載します。
1.二段落目「サイフッディーンはセルジューク朝王族アルプ・アルスラーンを介さずに父からモースルとジャズィーラの支配を継承出来た。」 同時代資料からは、サイフッディーンのモースル入城当時、上記アルプ・アルスラーンは死亡していたと見られ(Ibn al-Athir, Bahir, p.86 )、彼を介して支配を継承するという発想自体現実的ではありません。この文章は削除すべきだと思います。 2.三段落目「もうひとりの弟クトブッディーン・マウドゥードはディヤール・バクル地方をそれぞれ継承した。」 ディヤール・バクル地方はザンギー朝支配下にはありません(Ibn al-Athir, Bahir, p. 86 他)。この文章は削除すべきだと思います。 クトブッディーンの項目の記述にもディヤール・バクル支配が記載されていますが、これも事実誤認でしょう。 3.三段落目「ザンギーを殺害したヤルンカシュがダマスクス付近で捕らえられアレッポに送られると、ヌールッディーンは兄のいるモースルに移送されサイフッディーンはこれを処刑した。」 これでは処刑されたのはヌールッディーンだと思われるでしょう。「ヌールッディーンがヤルンカシュを、兄サイフッディーンのいるモースルに移送した」が事実ですので、修正が必要だと思います。 4.六段落目「サイフッディーン・ガーズィーは年長者としてザンギー朝を束ね、存命中は弟のヌールッディーンやクトブッディーンらとの主従関係が維持されたが、特にヌールッディーンとは1146年の和平協定以降、軍事行動や戦利品の分配などで主従の秩序が保たれるように彼自身も配慮に努めたようである。」 文意が良く判りませんが、戦利品の分配において配慮を見せたのはヌールッディーンであって(Ibn al-Athir, Kamil, XI, p. 134)サイフッディーンではありません。 仮にこの箇所の出典が拙稿だとしたら、残念ながら文意を取り違えてまとめたとしか言えません。 拙稿以外の出典を参考文献に挙げるか、この記述の修正をお願いしたいと思います。
よろしくご検討くださいますようお願い申し上げます。
- 見ていらっしゃるか分かりませんがご指摘の部分の修正と、いくつかの加筆を行いました。--ToquzOguz(会話) 2015年1月4日 (日) 06:27 (UTC)