ノート:カルロ・ベルゴンツィ

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ベルゴンツィのエミーリア訛と彼に対する評価について[編集]

(前略)主にヴェルディ作曲の諸役で売り出した。そのためか、日本のクラシック評論では、ベルゴンツィが「戦後屈指のヴェルディ・テノール」などと過大評価されることがある。しかし実際には、ベルゴンツィはイタリア語の発音だけをとっても、出身地エミリア地方に特有の発音の癖を最後まで克服できておらず、標準的イタリア語の発音を身に付けた他のイタリア人歌手たちの水準には及ばない。イタリア本国で彼は、歌手に高い文学的教養を求めるヴェルディの演奏解釈において、特に優秀とは見なされていない。

この部分に関してですが、いくつか疑問点(+私見)があります。
  1. 「日本のクラシック評論では」とありますが、彼が20世紀後半屈指のヴェルディ・テノールとの評価は(最高の、ではないにせよ)少なくとも英米系の評論家に共通していると考えますが。
  2. エミーリア訛というのは、例えばsposaの最初のsがベルゴンツィが歌うと「シュ」みたいに聴こえるっていうあれでしょうか。
  3. 「他のイタリア人歌手」とは例えば誰を指しますか?もちろんベルゴンツィの同時代人で。
  4. 「(イタリアでは)特に優秀とは見なされていない」のソースの提示を願います。イタリア語の書籍でもけっこうです。
私見ですが、このWikipediaはテノール評論サイトではないのだから、最大公約数的な意見が「屈指のヴェルディ・テノール」ならとりあえずそう書くのがいいのではないか、と考えています。ちなみに私は特に彼のファンというわけではありません。古い話ですがNHKホールの杮落とし公演での彼のラダメスは安全運転過ぎて大したことなかった‥‥‥--にごう 2006年5月31日 (水) 09:17 (UTC)[返信]
上記コメントから2週間経過し、ベルゴンツィに対する評価(それ自身とても興味深い見解ですが)のソース提示がありませんので、とりあえずコメントアウトさせていただきます。なお、The Oxford Dictionary of Opera(ISBN 0-19-869164-5)にも"His beautiful voice and musical refinement were particularly memorable in Verdi."とありますので、ヴェルディ・テノールとしての高評価は決して日本独特のものではないと判断しています。--にごう 2006年6月14日 (水) 07:28 (UTC)[返信]

  1. しかし、「英米系の評論家」はどういう意味で「ヴェルディ・テノール」という英語を用いるのでしょうか。「ヴェルディ・テノール」なる言葉自体は普通、ヴェルディ作品の演奏に適した、秀でたテノール歌手を思わせるので、そこから過大評価も生じる余地があります。ヴェルディ自身がそのような類のテノールを想定していたわけではありません。ヴェルディの曲を多く演奏しただけで「ヴェルディ・テノール」と呼べるならば、ベルゴンツィの他にも有り余るほどいます。何をもって「ヴェルディ・テノール」と名づけるかという点を明確にせずに、「屈指のヴェルディ・テノール」や、「ヴェルディ・テノールとしての高評価は決して日本独特のものではない」などの表現を無批判に用いないほうが賢明でしょう。The Oxford Dictionary of Operaの引用にある「美声」と「音楽的洗練」は、ヴェルディ作品以外の演奏にも等しく求められます。さらに、この記述はベルゴンツィの「ヴェルディ・テノールとしての高評価」を証明するものではありません。
  2. 発音の訛りは致命的で、イタリアでは本当に笑われています。ベルゴンツィの歌唱力について語る評論家も、フレージングや歌唱技術を一通りの言葉でほめてはいますが、発音への言及は避けています(P. Caputo, R. Celletti, Garzanti Musica)。
  3. 文脈からすると具体的な個人というよりもむしろ、時代を問わず「標準的なイタリア語の発音を身に付けた他のすべての歌手」でしょう。
  4. 「イタリア本国で彼は、歌手に高い文学的教養を求めるヴェルディの演奏解釈において、特に優秀とは見なされていない」という文脈を読まねばなりません。もとより2.の問題があるので、これは「英米系の評論家」が何と言おうと事実です。なお、Wikipediaの項目の記述には反しますが、P. Caputoは、ベルゴンツィの声は「決して美しくない」とまで断言します。イタリア語の文献には、ベルゴンツィがヴェルディ作品の演奏において、他の同時代歌手と比較して「特に優秀だ」という大胆な記述はなされていません。

 知名度の高い歌手の技量に踏み込んで、専門家らしい批判的な記述がなされるのは珍しく、残しておけばいろんな意味で興味を持つ人もいたはずです。「ソースの提示がない」という一方的な理由でこの部分を削除なさるのは、いかがなものでしょうか。 --以上は2006年6月14日 (水) 16:14 (UTC) 利用者:125.202.3.41さんのコメントでした。お互い長文になりがちなので適宜仕切線を入れさせて頂きます。


コメントありがとうございました。テノールに関して博学の方とこうして会話ができるのは喜ばしい限りです。さて、以下では125.202.3.41さんのコメントに沿いつつ、ベルゴンツィの記述をより充実させていく方途を考えることにしましょう。
  1. 確かに、「ヴェルディ・テノール」なる「日本語」を無批判的に用いることには注意が必要ですね。Oxfordでも大意「ヴェルディの演奏において人々の記憶に残った」というだけですからね。うまい表現に改めることには大賛成です。
  2. ベルゴンツィの発音のどこにその特徴が現れているのか教えていただけませんか?そして、それを指摘したソース(書籍でも、ネットでもかまいません)を挙げていただければありがたいです。「笑われている」というほどひどい評価だとするなら、興味津々です。
  3. 本題からは外れますが、私はライブ録音に関してはラボーの方がよほど好ましく思っています。125.202.3.41さんはどうですか?
  4. ちなみにちょっとググって見つけたイタリア放送協会RAIのページでは"Carlo Bergonzi è stato uno dei maggiori interpreti verdiani del Novecento teatrale."と言っているので、通俗的なイタリアでの評論ではやはりone of the greatest interpreters of Verdi in 20th cent.ではあるようです。もちろん、「より専門的な立場からは~のような批判がある」という形で、より深い記述を展開することは望ましいことなので、これもCaputoという人の記述のソースを挙げていただければありがたいです。
以下は余談めくのですが
    • 「ソースの提示がないとの理由での削除は一方的」とのことですが、通俗的な理解に反する、より踏み込んだ記述を百科事典としてのWikipediaが行う場合、やはりソースを挙げる(本文でなくとも、せめてノートの議論として)ことは必要ではないかと思っています。なお、上記太字部分は削除したのでなくコメントアウトですので、コンセンサスが取れ次第復活させることは容易です。
    • 125.202.3.41さんに勝手なお願いなのですが、ログイン名をとって参加されるお考えはおありですか? そうすれば私ども既存ログイン・ユーザーにとっては会話が容易ですし、125.202.3.41さんの方でも「ウォッチリストが使える」「IPアドレスを晒さないで済むので匿名性がかえって向上する」というメリットがあります。実はラウリ=ヴォルピの項目でもテノールに詳しい方が記述を充実して下さっており、その方とお話がしたいと思っていたのですが、もしかして同一の方だったりしますか?

--にごう 2006年6月15日 (木) 00:37 (UTC)[返信]