ノート:アルタン・ハーン

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モンゴル(北元)の大ハーンになったか?[編集]

『森川哲雄 「ポスト・モンゴル時代のモンゴル―清朝への架け橋―」『岩波講座 世界歴史11 中央ユーラシアの統合』、岩波書店、1997年』によると、アルタン・ハーンはチャハル万戸を治める大ハーンを圧倒してモンゴルの大半を支配するトゥメト王国とも言うべき政権を樹立したものの、正統なモンゴルの大ハーンには即位してはおらず、チャハル王家の大ハーンをモンゴルの正統な支配者と認めていたとされています。現段階での本記事ではアルタンが大ハーンに即位したとしてありますが、その記述の元になる出典の正確性はどうなのでしょうか?中央ユーラシア史に詳しい方の助言をお願いいたします。--ウミユスリカ 2009年7月20日 (月) 13:13 (UTC)[返信]

アルタン・ハーンは「チンギス統原理」に基づく血筋的なハーン(チャハル部のハーン)ではないものの、「転生思想」に基づくチベット仏教のダライ・ラマから授与されたハーン(チャクラ・ヴァルティン・ハーン)であるため、一応「正統」と言えます。当時のハーン位はチンギス・カンの直系の子孫しか名乗れない称号(チンギス統原理)ではなくなり、チベット仏教に則った「正統ハーンの転生者が正統ハーンである」という「転生思想」に基づいたハーンが「正統」と認識されていたので、クビライ・カアンの転生者とされたアルタン・ハーンもハーン位に就くことができました。よって、これ以降のハーンも血筋・民族に関係なく、ダライ・ラマから認定された者はハーン位に就いたわけですが、血筋的にチンギス宗家とされていたチャハル部のハーンも正統ハーンであることもまた事実です。--トムル 2011年3月31日 (木) 13:54 (UTC)[返信]
アルタンが1551年に「正統ハーン」の地位に即位したという記述がどんな根拠にもとづくのか大変に興味があります。ダライラマ三世とアルタンが会見して称号を送り合うのは1578年のことであって、この年に「チャクラ・ヴァルティン・ハーン」号をもらったことは、1551年にアルタンが「正統ハーン」になったという根拠にはなりません。アルタンが1551年に就任したついた地位について、史料はどんな呼称を使用しているのか、その地位を「正統ハーン」だと解釈している研究者とその研究にはどんなものがあるのか、ご紹介いただきたく、よろしくお願いします。--Dalaibaatur 2011年8月5日 (金) 21:34 (UTC)[返信]
見つけました。1551年ではありませんが、おそらく1542年(黒い寅年)頃にアルタン・ハーンが「トゥシェートゥ・セチェン・ハーン」の称号を与えられたことを言いたいのだと思います。吉田順一 他『アルタン=ハーン伝』(1998年、風間書房)によると、「当時アルタンは明への通貢の要求などにおいて東モンゴル全体の代表者の如き立場にあり、東モンゴルにおいて強い影響力を有していた。しかし1542年のメルゲン・ジノンの死後、右翼モンゴルを治める者が帯びるべきジノンの称号はメルゲン・ジノンの長子ノヤンダラが継承した。つまりアルタンは実力的には問題なく右翼モンゴルの指導者であったが、ジノンを差し置いて右翼モンゴルのリーダーとなるには、身分的な根拠に欠ける面があったと思われる。そこでアルタンはモンゴル、特に地理的に近い右翼モンゴルにとって積年の敵であったウイグドのボラハイ・タイシを降したことを正統ハーンであるボディ・ハーンにアピールし、その結果ボディ・ハーンを始めとする六トゥメンからトゥシェートゥ・セチェン・ハーンの称号を与えられたのである。このハーン号にはボディ・ハーンを始めとする東モンゴル王公が、勢力を伸長してきたアルタンの実力を評価する意味と、アルタンを名実共に右翼モンゴルのリーダーとして認める意味があったものと思われる。(永井匠「アルタン・ハーンのハーン号について」『文学研究科紀要別冊一八集』哲学・史学編、早稲田大学大学院文学研究科、1991年)」とあります。1551年としたのはおそらく、『蒙古源流』(ウルガ本)におけるグン・ビリク・メルゲン・ジノンの没年が1550年(45歳の庚戌の年)、ノヤンダラのジノン即位が1551年(辛亥の年)とあるためでしょう。しかし、『明史』などでは嘉靖21年(1542年)にグン・ビリク・メルゲン・ジノンが没したとしているので、珠栄嘎(ジュルンガ)や和田清らは1542年説を支持しています。--トムル 2011年8月11日 (木) 16:10 (UTC)[返信]