ノート:アイヌ/過去ログ1

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

「アイヌ」とはアイヌ語で「人」ではなく、「りっぱな人」という意味だと聞いたことがありますが、どうなんでしょう?「普通の人を意味するのではない」と強調してたような気がします。 2003/12/20

和人[編集]

項目和人へのリダイレクトになっていますが、アイヌにかんする基礎的な用語だと思うのでごく簡単にでも項目に「和人」についての加筆をどなたかお願いできないでしょうか。--桜井和人 2005年5月17日 (火) 17:40 (UTC)

倭人と和人って、微妙にニュアンスが違う希ガス。--κικυ_♭ 2005年5月18日 (水) 10:21 (UTC)

質問です。[編集]

樺太アイヌは、ソ連侵攻と共にすべて樺太から追い出され、1994年に最後の語り手が亡くなったのを最後に民族としては滅んだ(血を引いた人は今も多くいます)と聞いていますが、今も樺太にいる、という記事は本当でしょうか?

78 2004年9月3日 (金) 08:50 (UTC)

ロシアのアイヌ民族については[編集]

[1] [2] に有るように、ロシアには自分でアイヌとして民族登録している方がいるようです。

アイヌ以前の記述[編集]

続縄文文化からオホーツク文化までは、アイヌ文化とは別物なので、削ったほうがよいと思います。系譜的に何らかの形でたどれはするのですが、それをもって××はアイヌ、とは単純に言わないようにするのが現在優勢な考え方のようです。まあ、単純に言わなければならないときには単純に言うしかないのですが、ウィキペディアは詳しく書ける場所ですので。この項目ではアイヌ文化との継承関係について触れるにとどめ、リンク先の項目で詳しく論じたほうがよいと思います。Kinori 2005年2月8日 (火) 05:10 (UTC)

基本的には賛成です。続縄文文化、擦文文化、オホーツク文化、本州の蝦夷文化はアイヌ文化と連続する側面はあるのですが、あくまでアイヌ文化とは、これらの系譜を引きながらも本州の中世以降に成立したものを指すべき言葉で、これらを担った人々もアイヌ文化成立のプロセスがまだ闇に包まれている現状から言っても、安易にアイヌと呼ぶべきではありません。ただ、既にオホーツク文化と蝦夷の記事はありますが、まだ続縄文文化、擦文文化の記事はありません。ですから続縄文文化と擦文文化への記事分割と、江実子とオホーツク文化の記事への一部内容の移動という措置をとり、こちらではアイヌ文化との継承関係にふれるという措置が妥当だと思います。--ウミユスリカ 2005年2月8日 (火) 10:21 (UTC)
ありがとうございます。では、新規記事に内容を分けていくという方向で、ぼちぼち進めていきましょう。Kinori 2005年2月9日 (水) 12:25 (UTC)
続縄文、擦文の記事を立てましたので、こちらは継承関係のみに書き換えました。内容的にはあちらもこちらも足りないことがあるでしょうが、それは修正してください。Kinori 2005年3月13日 (日) 13:31 (UTC)

名称に関して、私が小さい頃から北海道に住んでいて感じたことは、

人それぞれに用語の違いがあってもいいのではないか
アイヌは差別的意味合いで使われた時代もあった(cf.「ユダヤ人」)
「アイヌ民族」というのもどうか(「「アイヌ」は男・人間(cf.man, inuit)という意味であるし、「立派な」人間にしか使われない」曰く、かやの)
しかし、実際にはアイヌの間でも人それぞれ(抵抗を感じる/感じない)
「アイヌ人」よりは「アイヌの人たち」というのが奨励されていた観があった
しかし、「アイヌ」以外に「民族」名などあるだろうか
という感じです
以上、もっと分析してみる必要があるということです。--Sheynhertz-Unbayg 2005年3月6日 (日) 16:04 (UTC)

コシャマインかコマシャインか[編集]

私はずっとコシャ マインだと思っていたのですが、現在の表記はコマ シャインになっています。検索してみるとコマシャインがコシャマインの10分の1程あるようです。どちらとも正しいのかよくある間違いなのか何なのでしょうか? johncapistrano 2005年5月16日 (月) 06:02 (UTC)

コシャマインが正しいです。--Snow steed 2005年5月16日 (月) 12:05 (UTC)
付記すると、コシャマインとは、コシャム・アイヌということで、語尾が「立派な人間」を意味する「アイヌ」になっています。シャクシャインも同様にシャクシュ・アイヌです。当時のアイヌの指導者層にはよくあった人名語尾のようです。ただ、私もアイヌ語の造詣は浅いので、コシャムやシャクシュが意味するところは知らないのですが。--ウミユスリカ 2005年5月16日 (月) 13:19 (UTC)

復元、fmtしました。コシャマインに関して松前方の記録ですが、『新羅之記録』というものがあるそうです。道庁関係や能代市史等に収録されているそうです。正確性は研究者からも疑問がありウィキペディアで言うところのPOVのようです。johncapistrano 2005年5月16日 (月) 16:59 (UTC)

千島・クリル列島のアイヌについて[編集]

「樺太・千島のアイヌは第二次世界大戦後にその殆どが当地を占領したソビエト連邦政府によって北海道へ強制送還された」と書かれている箇所について、ちょっと質問です。 こないだ北海道に修学旅行に行ったとき、アイヌの方から「明治時代千島列島を日本が占領したとき、そこに住んでたアイヌはどこか一箇所の島に集められて伝染病で全滅させられた」みたいな話を聞いたんですが、これが本当だとすれば「千島のアイヌが第二次世界大戦後に北海道へ強制送還された」というのはおかしいのではないでしょうか。どうなんでしょうか。

確かにおかしいです。千島のアイヌは色丹島に集められてほとんど全滅させられました。Динамо Москва 2005年8月22日 (月) 14:36 (UTC)

やっぱりそうでしたか、ひどい話ですね。ではその箇所が間違っているか、千島アイヌの人たちが絶滅させられた後で他の地域のアイヌの人が千島列島に移住したか、ってことなんでしょうかね。

正確には全滅してません。終戦後ソ連が進駐した時は3人の千島アイヌが生き残っていたとどこかで読みました。Динамо Москва 2005年8月22日 (月) 14:56 (UTC)

あと、明治時代に強制同化政策で収容所みたいな場所に集められて慣れない生活を強要され、ほとんどが病死したなかで生き残ったわずかな方々が、北海道アイヌの居住地に合流したような事をどこかで読んだ記憶があります。正確な情報が入ったら書き込んでおきます。--ウミユスリカ 2005年8月22日 (月) 15:09 (UTC)

「土人学校」のことなら先住民族に少し記述があります。全道に作られたようです。あとこんなのも[3]。johncapistrano 2005年8月22日 (月) 15:23 (UTC)

まぁ、明治以降の日本のアイヌ政策のことを弁護するつもりはさらさらないんですが、当初の「土人」という言葉は、現在の語感とはちょっと違っていた部分はあるみたいですね。けっこう単純に「(その)土(地に定住する)人」という感覚で、悪名高き「旧土人」という呼び方も、本州などから入植した和人を「新土人」と呼ぶ対語だったようです。現在の日本語話者が感じる「土人」の語感は、南方に対するユートピア思想と、帝国主義的植民地思想の輸入と浸透、さらには日本人の南方進出が海外雄飛としてもてはやされていく時代気分が大衆文化の中で融合して、もう少し後に形成されてくるもののように感じられます。--ウミユスリカ 2005年8月22日 (月) 15:57 (UTC)
話題が変わってますが(強制移住や同化のことについてから)、「旧土人」と「土人」が混在して使われているのは見たことはありますが、「新土人」なる言葉は見たことがないですね。アイヌ文化振興法を「新土人保護法」と呼ぶ例は偶に見ますが。johncapistrano 2005年8月22日 (月) 17:19 (UTC)
本文の方に書いちゃったのはちょっと早計だったかもしれませんが、私は以前、どこかで入植者を新土人として旧土人との対語だったとする文献を読んでいるんですよ。googleなどをかけてみると、今のところネット上の日本語サイトにはこれに関する文章は存在しないみたいですが。少なくとも、「旧土人保護法」なる法律名は「旧(くは)土人(だった者を)保護(する)法」を意味するのではなく、「旧(くからの)土(着)人(を)保護(する)法」を意味していたはずです。--ウミユスリカ 2005年8月22日 (月) 18:21 (UTC)

差別[編集]

差別に関する記述が「独自の研究」扱いでコメントアウトされましたが、ウミユスリカ氏の編集の時点ではまともな記述だったと思います。現在の版ではアイヌが先住民ではないかのような編集がされていますがまともとは思えません。johncapistrano 2006年1月3日 (火) 10:23 (UTC)

しばらく放置している間に随分と記述の内容が変わったようですね。アイヌの先住性については広く認められていると思うので、冒頭記述に復活させました。差別については、アイヌ民族問題アイヌ民族差別などの別項目を作った方がよろしいのではないでしょうか。独立できるだけの研究や資料もあることと思います。--Snow steed 2006年1月3日 (火) 11:50 (UTC)
なんとなく全体的に攻撃的というか、中立的とはいえない文章になっているようです。一部の語句があまりにも極端だと思って直そうとしたのですが、よく読めば全体が気になって、それでいて自分の知識では責任を持てる形での修正は難しいという、実にもどかしい状態にあります。本当なら自分で書きたいところですが、出来ればある程度知識のある方に、もうちょっと客観的な視点に立った記述に直して頂きたいと思うのですが。私は、とりあえず現時点では一部の表現の修正だけに留めておきます。ハイゼン 2006年3月30日 (木) 08:44 (UTC)

本州のアイヌ(蝦夷)[編集]

以前青森県の歴史の本の中で、江戸時代の津軽藩の家臣乳井(にゅうい)某(乳井貢だったと思います)が、藩内の蝦夷の扱いを改善したという記述を読んだことがあります。また、アイヌ史の本で、江戸時代に下北半島の漁師に蝦夷服着用を禁じたという記述を目にしたことがあります。アイヌ(蝦夷)が本州にも居住していた証拠だと思いますが、残念ながら、どちらの文献も現在手元にありません。Nipisiquit 2006年7月11日 (火) 14:26 (UTC)

全然流れに関係しないんですけど、コタンの口笛への言及は必要ないですか?--Ks 2006年8月17日 (木) 17:08 (UTC)

確かに、本州北端にはアイヌが住んでいました。たしか『青森県の歴史』(山川出版社)にその記述があったと思います。駄言 2007年2月25日 (日) 22:52 (UTC)

津軽叢書、南部叢書を紐解けば記録はいくらでも出てきます。地元の市町村史の資料でも同様です。津軽アイヌについては若干の方がアイヌ人としての自覚を維持していて、サイモン・フレイザー大学で研究をしている田中桜子先生が津軽アイヌを自認されています。--210.164.1.71 2007年2月28日 (水) 06:49 (UTC)

本州アイヌについては、最近研究が進んでいる分野でもあり浪川健治氏などの研究があります。本州アイヌも含めてアイヌ民族の歴史について現代まで見通したと言う意味では最初の通史的著作、榎森進『アイヌ民族の歴史』草風館がだされました。千島・カラフトアイヌの歴史について、現在の研究が明らかにしていることは網羅的に記述されています。詳細なアイヌ民族史関連年表もあり、参考にされるといいと思われます。

樺太アイヌ[編集]

>しかしながらアイヌは現在も樺太に少数ながら住んでいる。 との記述がありますが、樺太アイヌは本当に現存しているのですか?資料をお願いします。Roter Stern Leipzig ’99 e.V. 2006年9月17日 (日) 01:33 (UTC)

この件について、サハリン州政府に問い合わせたことがあります。 残念ながら樺太アイヌについては、現在サハリン州が統計を取っていないので分からなくなっているそうです。 逆に分かったら教えてくれと頼まれてしまいました。 ロシア政府とサハリン州政府はアイヌ人をサハリンと千島列島の先住民として公認してはいるのですが、研究者不足ですかね。2006年12月23日(土)21:32(UTC)

ロシア当局の公式な見解としては、戦後一貫して、ロシア国民の中にアイヌ人は1人もいないということになっているはずです。 このような現状では「日本とロシアにまたがる北方先住民族」という記述が適切なのかも疑問です。 先日、樺太・千島からカムチャツカに強制移住させられたアイヌ人だと主張する12人が先住民認定を求めて民族団体を結成したそうです。--218.132.169.24 2008年5月15日 (木) 10:29 (UTC)

現在サハリンに居住している「サハリンアイヌ人」については、ロシア人研究者が90年代までに数人確認しています。それぞれ血縁がおられます。つまり血縁を含めると「数人」ではない、ということになります。その後日本の研究者も接触していますが、いずれにしても結果は一般に公表されていません。1990年に日本のマスコミが当時まだパスポートにあった「民族欄」に「アイヌ」とある50歳代のサハリンアイヌの方1人と会見しています。その方には当時お子さんが2人おられたので、その方々を含めれば3人確認されたということになります。--Riendautre 2009年9月22日 (火) 15:29 (UTC)

[編集]

英語版にアイヌの旗なるものが掲載されています。--61.25.249.118 2006年11月16日 (木) 01:47 (UTC)

1973年に砂澤ビッキ氏がデザインしたアイヌ民族旗ですね。--Snow steed 2006年11月16日 (木) 08:36 (UTC)

日本人と和人(表記の問題)[編集]

日本人と和人という表現が混在してますが、特にアイヌのように日本国内の民族を扱うのであれば日本人という言葉は日本国籍を持つ者という意味で限定して用いたほうが良いと思います。いかがでしょう。--ベーグルベーグル 2007年5月27日 (日) 07:52 (UTC)

(賛成)真っ当な意見だと同意します。--ろう(Law soma) 2007年5月28日 (月) 00:24 (UTC)

分割提案[編集]

現在、記事容量が39KBとかなり大きくなっていること、歴史部分は単独記事として充分に成立する内容であることから、歴史節を「アイヌの歴史」に分割することを提案いたします。--Peachkiller 2008年1月28日 (月) 01:55 (UTC)

了解です。ろう氏の考えとしては「アイヌの文化と生活」を「アイヌ」に統合した後に、「アイヌ文化」「アイヌの歴史」に再分割ということでよろしいでしょうか? 私も現状ではそれがベストかなと思います。--Peachkiller 2008年1月28日 (月) 08:55 (UTC)
そのとおりです。ただ、昨夜のうちにPeachkillerさんが「アイヌの文化と生活」の方を大幅加筆なさった結果、あちらは既に十分な分量になっておりますので、「アイヌ」の文化の節をあちらに切り貼り移動(もちろんコピー元へのリンクを要約欄に記述して)してから、あちらを「文化」に改名し、別途「歴史」をこちらから分離した後で、文化史についての詳細は「アイヌ文化」に詳細がある旨の記述をするという手もあります。あちらのノートにjohncapistranoさんが書いている方法ともPeachkillerさんの当初の考えとも合ったやり方と思いますのでそれでもいいのではないかと考え直しました。手法としては、
  1. 「文化と生活」の「文化」への改名--Peachkiller 2008年2月4日 (月) 02:57 (UTC)
  2. 「歴史」の分割、「歴史」項目の中に文化史を略述して詳細は「文化」にある旨の記述追加
  3. 「アイヌ」の文化節から「文化」への記事移動(要約欄には移動元移動先のリンク明記)
  4. 「アイヌ」の歴史節、文化節を略述の形式に改め、詳細は別ページである旨の記述追加
でいいと思います。--ろう(Law soma) D C 2008年1月28日 (月) 22:37 (UTC)
了解です。手順を整理していただけで大助かりです。記事移動についての手続きも調べてみますね。--Peachkiller 2008年1月29日 (火) 00:21 (UTC)

歴史部分を分割しました。--Peachkiller 2008年2月3日 (日) 12:02 (UTC)

お疲れ様です。私も出来るときに出来る限り作業に参加したいと思います。--ろう(Law soma) D C 2008年2月4日 (月) 01:12 (UTC)
文化部分の転記作業完了しました。皆様の協力で更に良い記事にしていきたいです。--Peachkiller 2008年2月4日 (月) 02:57 (UTC)

「アイヌ料理」の関連項目追加・査読依頼[編集]

はじめまして。 私は今年、平成21年の7月から8月にかけてアイヌ料理の項を大量に加筆した者です。この「アイヌ」の項の関連項目の欄に「アイヌ料理」を付け加えていただくとともに、ここを読んでいらっしゃる方にアイヌ料理の項の査読をお願いします。--61.12.151.123 2009年9月22日 (火) 14:30 (UTC)

 二重構造説についての記述について [編集]

「日本人の民族構造」につきましては専門家ではないので(ゲノムは専門ですが)、学会の議論の流れを知らないこと、またアイヌについての本質的議論にはまだなりえていないので、ノートにだけ記述しておきます。本文中、「近年の遺伝学的研究では日本人(本州、北海道アイヌ、沖縄県の3地域を比較)の遺伝子はほぼ同じで、北アジアを起源に持つことが明らかにされ、従来定説化されてきた縄文人(アイヌ含)を南方系・弥生人を北方系とする埴原和郎の「二重構造説」は否定されている。」とのことですが、1993年を遺伝学の近年とすることには大変な無理があります。ほとんど古代です。正しく近年の研究においては、少なくとも本州と沖縄に関しまして、非常にはっきりとした二重構造が見いだされています(http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2561928/ 、Figure 2を参照)。近年の集団遺伝学的研究と言うには最低限、ゲノムワイドの遺伝子多型を調べているべきです。--BAZIAN 2010年3月16日 (火) 01:50 (UTC)

BAZIAN様、ゲノムの専門家として、現時点で分かってる範囲のことを是非書いて頂きたいです。ウィキペディアのような場では、詳しい方、間違いに気付いた方が積極的に直していくことで記事は改善されていきます。DNAで「民族」という厄介なものを定義することには色々な問題が指摘されているのですが(各グループが欲しい結果を求めて実験を繰り返す様な事例:ユダヤ人同一種族をDNAで証明しようとする研究者等)、実際に明らかになっている部分は、専門の方にしか直せませんし、加筆も出来ないと思います。お手数ですが、修正していただけるのを期待しております。--Takaci 2010年8月16日 (月) 22:18 (UTC)

同感です。二重構造説は縄文人すべてを南方系とする点では否定(修正)されてますが、2010年篠田氏が弥生に入って遺伝子プールに変化があったことを確認しています。松本秀雄の手法は、基本的に免疫タンパク質の違いの有無を調べるだけで、1990年代ですでに時代ものです。私見ですが、どうも、いろんな説を切り貼りして、二重構造説が全否定されたかのような書き方をされる方がおいでのように思われます(日本人バイカル湖畔起源説とノート参照)。--仕事中の 2010年9月28日 (火) 04:21 (UTC)

二重構造説の否定というのもいろいろあるわけで、崎谷満なんかは列島への移住に複数の異なるルートからの複数の波があることは認めていて、二重構造説を二つの基本グループに分かれるというのを否定して(縄文時代人の渡来ルートの単一性及び遺伝的均質性の否定)います。この記事の文脈では、遺伝的に均質性の高い「縄文人」という人間集団がいた、という主張には疑問符がつくところです。とくに、アイヌの場合、北方のオホーツク文化人の遺伝的・文化的影響は大きい物があります。http://sicambre.at.webry.info/200804/article_11.html --Clinamen 2010年11月6日 (土) 10:32 (UTC)

「捕虜等を除く一般日本人」の引き揚げの記述について[編集]

「この際、捕虜等を除く一般日本人のソ連邦支配地域よりの引揚げは各人の希望によるものとされた」で始まる部分について、これをアイヌのページ、特に冒頭部分に記述する必要があるのか疑問です。それと文法的に不適切なのか文面の意味が非常にわかりにくいです。--奥底でものを言う人 2011年2月20日 (日) 08:03 (UTC)

この引き揚げを強制連行であったとみなす議論もあるので、自由意志によるものであった、という記述がなされています。--Clinamen 2011年2月22日 (火) 11:30 (UTC)

ポーランドの千島アイヌに関する記述[編集]

興味が沸いたので出典を探したところ確かに出てきましたが、かなりまゆつばな印象を受けました。1992年に一度そういう報告があったものの2005年になっても誰もそのグループを特定できなかったという話のようです。--Akiyama(tentative)会話2014年7月13日 (日) 09:54 (UTC)

無理解と意見の食い違い[編集]

アイヌ問題が存在しない、あるいは悪用されているとの指摘は、それが嘘であれば無理解、あるいは悪意を持っての糾弾であって、意見の食い違いではありませんね。ですから意見の食い違いであるというには、そのような疑惑が存在することをきっちりと書かねばなりません。もちろんその人の暴言のようなものでなく、きっちりとした出典を沿えて書いてなければなりません。それが出来ない限り、『意見の食い違い』ではあり得ないでしょう。--Keisotyo会話2016年9月12日 (月) 10:46 (UTC)

合意形成が至るまで保護依頼扱いにしておきました。私個人の判断では「意見の食い違い」であり、「無理解」は中立的な記述としては逸脱しています。--砂手紙会話2016年9月12日 (月) 12:23 (UTC)
意見の食い違いとすることは、そのままアイヌ協会、あるいはアイヌ民族を糾弾する内容となるわけで、その方が中立でないことになります。これまで維持されていた形を変えて保護とは、自分の方針を押し通す行為と考えます。ですからそれまでの形に戻します。その上でご意見を。--Keisotyo会話2016年9月12日 (月) 12:27 (UTC)
「無理解あるいは意見の食い違い」は「糾弾」に与する記述ではありません。元に戻しました。--砂手紙会話2016年9月12日 (月) 12:30 (UTC)
少なくとも、あなたが改変したことで編集合戦が始まったのです。であれば、編集合戦が始まる前は、あなたの改変する前のはずですが。その点は間違いなくあなたの詭弁です。--Keisotyo会話2016年9月12日 (月) 12:42 (UTC)
最初は「無理解」を「意見の食い違い」としたものを、Keisotyoさんのご意見を反映して「無理解あるいは意見の食い違い」に改めたのは、編集履歴を見ればおわかりの通りなので、その記述で合意形成はできませんかね。--砂手紙会話2016年9月12日 (月) 14:34 (UTC)
この件に関しては、3週間以上経ちましたので、「無理解あるいは意見の食い違い」という記述で合意形成がされたものと判断します。--砂手紙会話2016年10月5日 (水) 11:54 (UTC)

外部リンク修正[編集]

編集者の皆さんこんにちは、

アイヌ」上の9個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。

ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2018年3月17日 (土) 04:09 (UTC)

推理小説の中のアイヌ民族[編集]

話は変りますが、西村京太郎作「殺人者はオーロラを見た」徳間書店刊はアイヌ民族について詳しく触れられているミステリー小説です。 --以上の署名の無いコメントは、211.134.78.94ノート/Whois IPv4IPv6)さんが 2006年10月16日 (月) 02:39 (UTC) に投稿したものです。

樺太アイヌがソ連に強制送還された?[編集]

「樺太のアイヌは第二次世界大戦後にその殆どが当地を占領したソビエト連邦政府によって北海道へ強制送還されたが、現在も樺太には少数ながら住んでいる。」と言う記述について。

私は、何度も旧島民の方とサハリンを訪問していますが、これまで旧島民の方からソ連軍によって強制送還されたということを一度も聞いたことがありません。

また、先日、北海道が編纂した資料を読んでいたら、ソ連は占領後も住民を居住させ続けようとしていたので占領政策に不安を感じた日本国民の側から北海道への移送を要請してソ連軍がそれに応えたことになっていました。

強制送還だったと言う出典は何なのでしょうか? --以上の署名の無いコメントは、210.139.75.239ノート/Whois IPv4IPv6)さんが 2006年12月23日 (土) 12:46 (UTC) に投稿したものです。

歴史[編集]

「アイヌは縄文人の子孫ではなく、元々はアムール川河口や樺太に住んでおり、13世紀ごろに樺太から追われて北海道へと逃れてきた。」は下部の『歴史』の項にも裏付ける記述がないことから、削除すべきだと考えますがご意見をお聞かせください。--燕雀安知鴻鵠之志哉会話2019年7月14日 (日) 06:07 (UTC)

それは削除すべきではありません。樺太から逃れてきた部族と縄文人が共生して成り立ったのがアイヌなので。 日本おにぎり会話2019年12月6日 (金) 04:20 (UTC)

問題の文につけられていた出典は、長浜浩明『日本の誕生 皇室と日本人のルーツ』(ワック、2019年)でした。著者は在野の歴史研究者ですね。で、その本の帯には「「神武東征」はあった!」「「日本書紀」には真実が書かれていた」と書かれております[4]。歴史学者の間で認められた説ではないようです。ウィキペディアに掲載すべきものとは思えません。
そして、日本おにぎりさんにお願いします。既にある出典に、その出典にない説をまぎれこませるのはやめてください[5]。そういうことをすると、ウィキペディアが出典について嘘をつくことになってしまいます。--Kinori会話2019年12月6日 (金) 05:50 (UTC)

アイヌと馬[編集]

桃崎有一郎の「武士の起源を解きあかす」に蝦夷が弓馬の術に優れていたという記述があります。疑っていましたが、本当のようです。コピペするのも何なので次の記事のコメント欄をご覧ください。この件については当記事に一章が必要だと思います。 --Ypacaraí会話2019年4月6日 (土) 02:02 (UTC)

その蝦夷は本州の「えみし」のことでしょう。蝦夷俘囚で触れればよいことで、こちらに章を立てる必要はありません。--Kinori会話2019年4月6日 (土) 20:27 (UTC)