セント・アンドリュー (戦列艦・1670年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
セント・アンドリュー

海上で順風を受けるセント・アンドリュー(ウィレム・ファン・デ・ヴェルデ2世による油彩画)
艦歴
運用者 Royal Navy Ensign イギリス海軍 
建造 ウリッジ工廠
(クリストファー・ペット、ジョナス・シス)
進水 1670年10月4日
改名 ロイヤル・アン(1703年
その後 1727年解体
性能諸元[1]
クラス 96門1等戦列艦
トン数 1298bm
全長 竜骨:129ft (39.3m)
全幅 43ft 6in(13.3m)
喫水 18ft 8in(5.7m)
推進 帆走(3本マストシップ
兵装 各種口径の砲96門
性能諸元(1703年再建造)[2]
クラス 100門1等戦列艦
トン数 1722bm
全長 砲列甲板:170ft (51.8m)
竜骨:140ft 6in(42.8m)
全幅 48ft (14.6m)
喫水 19ft 4in(5.9m)
推進 帆走(3本マストシップ
兵装 各種口径の砲100門

セント・アンドリュー(HMS St Andrew)はイギリス海軍の96門1等戦列艦。後にロイヤル・アン(HMS Royal Anne)と改名された。

艦歴とエピソード[編集]

セント・アンドリューはウリッジ工廠でクリストファー・ペットによって建造が進められ、1668年3月の彼の死後、ジョナス・シスの手によって1670年に進水した[1]

セント・アンドリューは1703年にロイヤル・アン(HMS Royal Anne)と改名され、ウールウィッチ工廠で100門の1等艦として再建造された[2]。1707年には、青色海軍中将ジョージ・ビングの旗艦としてクラウズリー・ショヴェル提督の艦隊に所属した。この艦隊において、失敗したトゥーロン包囲戦に参加し、ショヴェルと4隻の艦船が失われたシリー諸島での海軍大難破にも居合わせた。この海難事件では2等艦アソシエーション、3等艦イーグル、4等艦ロムニー、 火船のファイアブランドと2000人にも及ぶ水夫が失われた[3]。ロイヤル・アンは辛くもほぼ損傷無しでポーツマスに帰り着いた。

ロイヤル・アンは最終的に1727年に解体された[2]

脚注[編集]

  1. ^ a b Lavery, Ships of the Line vol.1, p161.
  2. ^ a b c Lavery, Ships of the Line vol.1, p165.
  3. ^ Sobel, Dava, Longitude: The True Story of a Lone Genius Who Solved the Greatest Scientific Problem of His Time, Fourth Estate Ltd., London 1998, p. 6, ISBN 1-85702-571-7

参考文献[編集]

  • Lavery, Brian (2003) The Ship of the Line - Volume 1: The development of the battlefleet 1650-1850. Conway Maritime Press. ISBN 0-85177-252-8.
  • Winfield, Rif (2009) British Warships in the Age of Sail 1603-1714: Design, Construction, Careers and Fates. Seaforth Publishing. ISBN 978-1-84832-040-6.

関連項目[編集]