スヴャトスラフ・ムスチスラヴィチ (カラチェフ公)
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スヴャトスラフ・ムスチスラヴィチ(ロシア語: Святослав Мстиславич、? - 1310年)はリューリク朝・オレグ家(ru)出身の公(クニャージ)である。カラチェフ公、コゼリスク公。おそらくカラチェフ公ムスチスラフの子、チェルニゴフ公ミハイルの孫。
生涯
[編集]年代記(レートピシ)上でのスヴャトスラフに関する言及は1箇所のみである。すなわち、1310年、ブリャンスク公ヴァシリーがジョチ・ウルスの軍勢と共にスヴャトスラフの領地に攻め寄せ、カラチェフを占領した。というものである。また、スヴャトスラフはこの時に死亡した。おそらく、スヴャトスラフはスモレンスク公家(スモレンスク・ロスチスラフ家[注 1])の手に渡っていたブリャンスクの統治権を主張したため、ヴァシリーによって討たれたと考えられる[注 2][1]。
ある家系図によれば、スヴャトスラフはカラチェフ公ムスチスラフの次男であり、ムスチスラフの死後カラチェフを継承したと記されている[1]。なお、14世紀末には、カラチェフはスヴャトスラフの兄弟である、スヴェニゴロド公アンドレイ(ru)の子孫に継承されている。
19世紀末のV.ゾートフによれば、『リューベチ・シノディク』のNo.43に記されるアレクサンドルとは、スヴャトスラフの聖名ではないかとされている[2]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 本頁における「スモレンスク・ロスチスラフ家」は12世紀半ばのロスチスラフを祖とするスモレンスク公国の公の家系に対する、便宜上の訳出である。
- ^ ヴァシリーはスモレンスク・ロスチスラフ家の出身とさるが異説もある。詳しくはヴァシリー・アレクサンドロヴィチ (ブリャンスク公)を参照されたし。
出典
[編集]- ^ a b Карачевские и Козельские князья // Русский биографический словарь : в 25 томах. ? СПб.?М., 1896?1918.
- ^ Зотов Р. В. О черниговских князьях по Любецкому синодику — С. 104—105.
参考文献
[編集]- Войтович Л. Рюриковичі. Ольговичі. Карачевська гілка // Князівські династії Східної Європи (кінець IX — початок XVI ст.): склад, суспільна і політична роль. Історико-генеалогічне дослідження. — Львів: Інститут українознавства ім. І.Крип’якевича, 2000.