ゲオルク・フォン・アンハルト=デッサウ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ゲオルク・フォン・アンハルト=デッサウ
Georg von Anhalt-Dessau

出生 (1796-02-21) 1796年2月21日
デッサウ
死去 (1865-10-16) 1865年10月16日(69歳没)
ドレスデン
配偶者 カロリーネ・フォン・シュヴァルツブルク=ルードルシュタット
  テレーゼ・エンマ・フォン・エルトマンスドルフ
子女 一覧参照
家名 アンハルト=デッサウ家
父親 フリードリヒ・フォン・アンハルト=デッサウ
母親 アマーリエ・フォン・ヘッセン=ホンブルク
テンプレートを表示

ゲオルク・ベルンハルト・フォン・アンハルト=デッサウ(Georg Bernhard von Anhalt-Dessau, 1796年2月21日 - 1865年10月16日)は、ドイツの諸侯アンハルト=デッサウ家の公子。

生涯[編集]

アンハルト=デッサウ公世子フリードリヒと、その妻でヘッセン=ホンブルク方伯フリードリヒ5世の娘アマーリエの間の第3子・次男。デッサウの騎士大通り(Kavalierstraße)に自身のための宮殿を建造[1]したが、4万5000ターラーもの巨額の建造費用のために多額の借財に苦しんだ、この宮殿は相続した子供たちの家名に因みライナ宮殿(Palais Reina)と呼ばれ、後には美術館として転用された時期もあったが、第二次世界大戦中の戦災で最終的に消失した。

子女[編集]

1825年8月6日ルードルシュタット英語版で、従妹にあたるシュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯女カロリーネ(1804年 - 1829年)と結婚。彼女は母方の叔母ルイーゼ(1772年 - 1854年)とその夫のカール・ギュンター侯子(1771年 - 1825年)の間の娘である。間に1男1女があった。

  • ルイーゼ(1826年 - 1900年)
  • フリードリヒ(1828年)

最初の妻と死別して2年後の1831年10月4日、ドレスデンで下級貴族の娘テレーゼ・エンマ・フォン・エルトマンスドルフ(1807年 - 1848年)と再婚する。エンマの出自が低いため貴賤結婚とされ、妻子はライナ伯爵/伯爵夫人(Graf/Gräfin von Reina)の家名を授けられた。エンマとの間には7人の子があった。

  • フランツ(1832年 - 1879年)
  • マティルデ(1833年 - 1917年) - 1859年Otto von Koenneritzと結婚
  • ヘレーネ(1835年 - 1860年) - 1855年叔父ヴィルヘルム公子との養子縁組によりアンハルト=デッサウ公女の称号を名乗り、同年にシュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯フリードリヒ・ギュンターと結婚
  • エンマ(1837年 - 1909年)
  • マリア(1839年 - 1931年)
  • ルドルフ(1842年 - 1921年) - 1882年Marie Parisと結婚
  • カール(1844年 - 1900年) - 1887年Cosima von Mörnerと結婚(1893年離婚)、1894年伯爵令嬢マリア・フォン・デア・グレーベンと再婚

参考文献[編集]

  • Franz Brückner: Häuserbuch der Stadt Dessau, Band 15, Rat der Stadt Dessau, Stadtarchiv, Dessau, 1987

引用[編集]

  1. ^ http://www.reisewerk.de/stadpark-historie/Stadtpark_Historie.ebook.pdf