黄崇
黄 崇(こう すう、?-263年)は、三国時代の蜀(蜀漢)の武将、政治家。黄権の子。『三国志』蜀志の黄権の伝に記録がある。
章武二年(222年)、荊州に親征していた劉備は夷陵の戦いにおいて呉の陸遜に大敗した。黄崇の父の黄権は劉備の信任が厚い武将の一人で、このときも別働隊を率いて荊州北部深く侵攻していたが、劉備の敗戦により、進退に窮することになり、やむなく魏に降伏した。黄権の家族の処罰を進言したものがいたが、敗戦の責を痛感していた劉備は黄権を咎めず、その家族は処罰されなかった。
黄崇は、そのまま蜀(蜀漢)に出仕して後に尚書郎に任じられた。
炎興元年(263年)冬、魏の鄧艾が陰平の間道を越えて蜀領深く侵攻してきたとき、迎撃の軍を率いた衛将軍の諸葛瞻に従って涪(ふ)県まで至った。諸葛瞻が軍を進めようとしなかったため、黄崇は諸葛瞻に対し、速やかに進軍し要害を占拠して敵を平地に進入させない様に何度も進言したが、聞き入れられなかった。黄崇は涙を流した。
鄧艾が軍を進めてくると、諸葛瞻は綿竹まで退却した。黄崇は諸葛瞻と共に綿竹を守って戦い、兵を鼓舞して奮戦したが、戦死した(綿竹の戦い)。