魏浚

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魏浚(ぎ しゅん、生年不詳 - 312年)は、中国西晋軍人本貫東郡東阿県

経歴

はじめ関中に寓居し、雍州の小吏となった。後に武威将軍・度支校尉となり、才幹を見せた。永嘉末年、流人数百家とともに河陰の硤石を守った。当時、都の洛陽は荒廃しており、魏浚は穀物を略奪して懐帝に献上し、このため揚威将軍・平陽郡太守に任命された。しかし永嘉の乱のため平陽に赴任しなかった。311年(永嘉5年)、劉聡らが洛陽を陥落させると、魏浚は洛北の石樑塢に駐屯し、遺民を収容して、兵器を修繕した。周辺の反乱者たちを説得して下し、命に従わない者には部将を派遣して攻撃した。312年(永嘉6年)、劉琨が承制すると、魏浚は仮の河南尹となった。ときに太尉荀藩が密県に行台を立てていたため、魏浚は荀藩のもとを訪れて軍事を相談した。荀藩は喜んで、魏浚を李矩と面会させようとした。李矩は部下の反対にも関わらず、夜間に魏浚のもとを訪れ、盟約を結んで帰った。漢の劉曜は魏浚が勢力を持つのをきらって、軍を率いて魏浚を包囲した。劉演郭黙が軍を派遣して魏浚を救援しようとしたが、劉曜が兵を分かって河北で迎え撃ち、劉演・郭黙の軍を撃破した。魏浚は夜間に逃走したが、劉曜に捕らえられて殺害された。平西将軍の位を追贈された。族子の魏該が魏浚の部衆を引き継いだ。

伝記資料