高原城

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高原城(たかはるじょう)は、現在の宮崎県西諸県郡高原町にあった平山城。別名を松ヶ城。

概要

永禄年間に、島津氏家臣の梅北掃部が作ったとされる。後に伊東四十八城の一つ。

全方位とも、険峻で深い谷に囲まれた天然の要害で、特に西方、北方、東方は深い谷がめぐり南面の一部のみが平地につながっている。本丸・二の丸・三の丸・取添丸の間に深い濠をめぐらせてあった。

現在は宮崎自動車道開通の際に丘陵の一部が削り取られており、尚且つ私有地であるらしく、住居が立ち並び指標などもなく場所を特定するのは難しい。

歴史

元々、島津氏の城であったが、伊東氏が掠め取り、天文22年(1553年)に北原氏の城となる。しかし、永禄2年(1559年)に北原氏の家督問題に付け込んだ伊東氏により、北原領が根こそぎ簒奪されると再び伊東氏の城となった。

その三年後、北原氏が北原兼親の元で再興された際には、北原再興に協力した島津氏北郷氏により奪い返され、北原家臣白坂下総介が城主を務める。但し北原氏は、伊東氏が相良氏と組んだことで逼迫させられ、これにより後難を恐れた下総介が北原家を出奔、城は三度伊東氏の所有に帰した。その際の城主は福永源左衛門であったが、木崎原の戦いで伊東氏が島津氏に大敗すると、守りを固めるために伊東勘解由(長倉祐政)を城主に据えた。

天正4年(1576年)8月19日、島津義久が率いる3万の大軍勢から攻撃を受ける。島津軍は城下の防塁を払い除け、火を放って啓開作業を行った。そのため城兵は城に籠って支えざるを得なくなる。そのとき高原城には370余人ほどの兵しかいなかった。島津軍は二の門まで破ったが三の門で激しい抵抗に遭い多数の死傷者を出すに至ったため、義久は無理な攻撃を控え城の水の手を絶たせた。翌20日は両軍の弓矢による攻撃が行われ、島津軍はここで鉄砲も使用している。双方に100人近くの死傷者が出たという。伊東義祐は城兵を救うべく援軍を出したが、圧倒的な兵数差に臆し一戦も行わなかった。翌21日、水に窮した城兵は矢文にて和議を申し入れた。22日に交渉が行われ、23日に開城。長倉祐政ら城兵170余人は野尻方面へ退却し、義久は凱旋入城を果たしたとされる。これにより高原城は再び島津氏の所有に帰した。その後は上原尚近が城主に任命され、上原はそのまま高原地頭にも任命される。

元和元年(1615年)の一国一城令により廃城

関連項目