高保勗
貞安王 高保勗 | |
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荊南 | |
第4代国主 | |
王朝 | 荊南 |
在位期間 | 960年 - 962年 |
姓・諱 | 高保勗 |
字 | 省躬 |
諡号 | 貞安王 |
生年 | 同光2年(924年) |
没年 | 建隆3年(962年) |
父 | 文献王 |
高 保勗(こう ほうきょく)は十国荊南の第4代国主。文献王高従誨の十男。
生涯
幼少時は病弱であったとされるが、文献王の寵愛を受け、文献王の気分が勝れない時にでも高保勗を見れば必ず微笑んだことより、臣下に万事休とも称された。
建隆元年(960年)、兄の貞懿王高保融が病没した際にその長男である高継沖が幼少であったこと、政治的には有能であったことから遺命によりその地位を継承し、宋より荊南節度使に任じられた。
ところが即位後は荒淫を極め、昼間より娼妓を官府に招き、若い士兵との色交を姫妾と共に観想したと史書にある。また建造物にも強い興味を示し、その造営に多額の出費をするなど朝政を省みなくなり、人臣の不満が高まった。
建隆3年(962年)に39歳で病死すると甥の高継沖が嗣位するが、その数ヵ月後に荊南は滅亡することとなり、万事休の通称が予兆したものとされた。