飯高永雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Snap55 (会話 | 投稿記録) による 2016年4月3日 (日) 13:03個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (官歴・系譜セクションの追加、経歴内容見直し)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

飯高 永雄(いいだか の ながお、生没年不詳)は、平安時代初期から前期にかけての貴族宿禰のち朝臣官位従五位上丹波守

経歴

承和3年(836年)一族の全雄・弟高らとともに、宿禰姓から朝臣姓に改姓する。承和14年(847年)の時子内親王仁明天皇皇女[1]嘉祥2年(849年百済王慶明尚侍[2]、嘉祥3年(850年秀子内親王嵯峨天皇皇女)と[3]、仁明朝末にかけて後宮の女性が薨去した際に葬儀の監護を務める。また、嘉祥3年(850年)5月の仁明天皇崩御後の修六七日御斎会では東大寺使を務めた[4]

文徳朝に入り、仁寿2年(852年播磨権介として地方官に遷任する。斉衡元年(854年刑部少輔に任ぜられて京官に復すと、中務少輔主税頭大蔵少輔と文徳朝中盤は京官を歴任する。

文徳朝末の天安2年(858年尾張守として再び地方官に転じると、清和朝でも越後守丹波守と地方官を歴任した。またこの間、貞観5年(863年)には従五位上に昇叙されている。

官歴

系譜

  • 父:飯高滝雄[5]
  • 母:不詳
  • 生母不詳の子女
    • 男子:飯高継平[5]

脚注

  1. ^ 『続日本後紀』承和14年2月12日条
  2. ^ 『続日本後紀』嘉祥2年正月22日条
  3. ^ 『続日本後紀』嘉祥3年2月25日条
  4. ^ 『日本文徳天皇実録』嘉祥3年5月3日条
  5. ^ a b 鈴木真年『百家系図稿』巻6,飯高朝臣

参考文献