飯塚勘一郎

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 飯塚 勘一郎 八段
名前 飯塚 勘一郎
生年月日 (1895-01-07) 1895年1月7日
没年月日 (1966-01-10) 1966年1月10日(71歳没)
プロ入り年月日 1918年(23歳)[注 1]
引退年月日 1950年(55歳)
出身地 茨城県
所属 東京将棋社
→東京将棋連盟
日本将棋連盟(関東)
→将棋大成会(関東)
→日本将棋連盟(関東)
師匠 大崎熊雄
弟子 永沢勝雄大友昇山口千嶺
段位 八段
順位戦最高クラス B級
2022年2月21日現在
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飯塚 勘一郎(いいづか かんいちろう、1895年1月7日 - 1966年1月10日)は、将棋棋士。八段。大崎熊雄九段門下。茨城県出身。

経歴

1916年に入門し、1918年に四段に昇段。

1943年に七段。戦後の1946年順位戦B級クラスに参加し、3勝10敗で降級。1950年に引退。1964年に棋界功労者表彰式で八段を贈られる。

弟子

弟子に永沢勝雄大友昇山口千嶺がいる。

主な著書

  • 将棋初段になる迄―別名将棋の妙味(1929年、大森書房)
  • 将棋名匠の面影(1937年、信正社)

関連項目

脚注

注釈

  1. ^ ここでは便宜上、四段昇段日をプロ入り日として扱うが、飯塚のプロ入り当時は初段昇段時から専門棋士として扱われていたとされる。昭和9年(1934年)に大阪で升田幸三が初段になった頃までは、「初段からが専門棋士」だった[1]。その頃、奨励会ができた(東京は昭和3年(1928年)、大阪は昭和10年(1935年))ことをきっかけに、「(奨励会を卒業して)四段からプロ棋士」という制度が確立されていった[2]

出典

  1. ^ 東公平『升田幸三物語』(日本将棋連盟)P.36
  2. ^ 加藤治郎原田泰夫田辺忠幸『証言・昭和将棋史』(毎日コミュニケーションズ)P.10、P.215-220