鞍部堅貴
鞍部堅貴(くらつくりのけんき、生没年不詳)は、『日本書紀』によると、雄略天皇七年に渡来したとする百済の工匠[1]。
人物
中国南梁人の司馬達等の後裔とされるが、中井真孝は「達等は堅貴と血縁のつながりはなく日本に渡来するや鞍部に編入されあるいは擬制的に鞍作村主の一族に属せられた」と指摘している[2]。直林不退は、「両者を同一の血縁関係を持つ直系の後裔であったと断言するのは些か躊躇せざるを得ない」として、「波動的渡来」の可能性、すなわち、複数の時期・地域からの同系職種の技術者の渡来があり、そのなかに、同じ血脈に連なるもの、地域を同じくする者同士が、先縁を辿って移住したとする[2]。また直林不退は、「鞍部氏に於いても、中国華南地方との関わりが窺えるのも興味深いところであろう」「現況では、平野邦雄氏のいう如く『南梁→百済→日本』とのルートを考えるのが最も自然ではなかろうか」「南梁・百済を経由しての渡来」とする[2]。また『梁書』は、梁武帝普通二年(521年)百済が南梁に巻を上って遣使したとあり、『三国史記』は百済聖王十九年(541年)に梁武帝へ使を送ったとしており、南梁と百済の交流で種々の人的交渉が存在し、中国南朝から百済への移住があったとする[2]。
評価
楽敏は、「推古帝十五年(607年)、正使・小野妹子、通訳・鞍作福利などで構成される第二次遣隋使節団が組まれた。鞍作福利は、まさに帰化漢人の後裔である。その先祖の鞍部堅貴は、倭王・武、即ち雄略帝時代に、大和地方の上、下桃原一帯に移住した。後に鞍作氏は蘇我氏と良好な関係を持つに至り、蘇我氏に鞍作臣と呼ばれるようになった。関係の深さは、この一事をもってしても明確である。かくして鞍作氏一族は、飛鳥文化の発展過程に積極的な役割を果たしたのである」と評している[3]。