青木一矩
青木 一矩(あおき かずのり、天文10年(1541年) - 慶長5年10月6日(1600年11月11日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。越前北ノ庄城城主。紀伊守。別名は秀以、重治。通称は勘兵衛。従五位上、侍従。紀伊守。子に俊矩、蓮華院(お梅の方、徳川家康側室、のち本多正純正室)。
生涯
天文10年(1541年)、青木重矩の子として生まれる(生年には異説も多い)。母が関弥五郎の三女で、豊臣秀吉の養父・竹阿弥の縁者に当たることから、秀吉とは従兄弟の関係に当たるという。一説には青木一重の青木氏と同族とされるが定かではない。
秀吉に早くから仕え、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに参加する。天正15年(1587年)の九州征伐にも参加し、その功績により播磨立石城主となった。1598年(慶長3年)から越前北庄で8万石を領していた[1]。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の合戦に際しては、大谷吉継の誘いに応じ西軍に味方し、北陸の西軍方の諸将とともに東軍の前田利長と対峙した(浅井畷の戦い)ものの敗れて、北庄城に籠城したが、関ヶ原の本戦で西軍が敗戦したことを知ると土方雄久の斡旋により嫡男俊矩を人質に差し出して利長に降伏し、戦後の10月6日に病死。享年60。千利休に師事する茶人でもあった。
脚注
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