青山忠高
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 享保19年11月5日(1734年11月29日) |
死没 | 文化13年8月14日(1816年9月5日) |
改名 | 秀五郎(幼名)、正幸(初名)、忠高、有斎(法号) |
戒名 | 徳峯院孤燐有斎 |
墓所 | 兵庫県丹波篠山市岡屋の幡龍庵 |
官位 | 従五位下・下野守、左衛門佐 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治 |
藩 | 丹波篠山藩主 |
氏族 | 青山氏 |
父母 |
青山幸秀、寂林院 青山忠朝 |
兄弟 |
金次郎、藤七、幸道、幸篤、幸充、 忠高、相馬恕胤正室、幸弼 |
妻 | 戸田忠余娘、桂香院 |
子 |
岡部長備正室、忠講、牧野忠精正室、 忠裕、松平信弥正室、武田信誼室ら |
青山 忠高(あおやま ただたか)は、江戸時代中期の大名。丹波国篠山藩2代藩主。官位は従五位下・下野守、左衛門佐。青山家宗家16代。
生涯
[編集]享保19年(1734年)11月5日、丹後国宮津藩主・青山幸秀の七男として江戸で誕生した。
宝暦4年(1754年)8月12日、篠山藩の初代藩主で叔父に当たる青山忠朝の養子となり、12月18日に従五位下・下野守に叙位・任官する。宝暦10年(1760年)に忠朝が死去したため、家督を継いだ。このとき、諱を正幸から忠高と改名している。
明和3年(1766年)4月、藩校・振徳堂を創設し、文武の奨励や教育制度の確立に努めた。さらに農業振興のために治水工事などに尽力したが、洪水や旱魃などの天災が相次ぎ、百姓一揆も起こって藩政は多難だった。天明元年(1781年)6月24日、家督を次男の忠講に譲って隠居し、左衛門佐に遷任する。寛政元年(1789年)4月1日、剃髪して有斎と号した。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 8頁。