青山忠講

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青山 忠講
時代 江戸時代中期
生誕 明和2年10月17日1765年11月29日
死没 天明5年7月18日1785年8月22日
改名 春橘(幼名)、忠講
戒名 岱岳院智観紹勇
墓所 兵庫県篠山市岡屋の幡龍庵
官位 従五位下、伯耆
幕府 江戸幕府
丹波国篠山藩
氏族 青山氏
父母 父:青山忠高、母:桂香院
兄弟 姉(岡部長備室)、忠講、妹(牧野忠精室)、
忠裕、妹(松平信弥室)、妹(武田信誼室)
正室:なし
娘(松平信行室)、養子:忠裕
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青山 忠講(あおやま ただつぐ)は、丹波篠山藩の第3代藩主。青山家宗家9代。

明和2年(1765年)10月17日、第2代藩主青山忠高の次男として江戸で生まれる。安永9年(1780年)12月18日、従五位下・伯耆守に叙位・任官する。天明元年(1781年)6月24日、父が病気で隠居したため、家督を継いだ。

しかし在職4年で父に先立って、天明5年(1785年)7月18日に江戸で死去した。享年21。実子がなかったため、同母弟で養子の忠裕が家督を継いだ。