雲芸和議

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雲芸和議 (うんけいわぎ)は、戦国大名の尼子氏毛利氏において永禄4年(1561年)から永禄5年(1562年)に結ばれた和議である。

経過

出雲国を基盤とする尼子氏は、当主・晴久の代には山陰・山陽八ヶ国守護として最盛期を迎え、大内氏を滅ぼした毛利氏にとって最大の障害となっていた。特に毛利元就の軍勢は、石見銀山を獲得すべく石見へと侵攻するも晴久によって二度撃退され(忍原崩れ降露坂の戦い)、尼子氏は石見銀山の権益を独占していた。

しかし、永禄3年(1561年)12月に晴久が頓死し、晴久の嫡男である義久が家督を継承すると尼子家臣団にも動揺が起きた。

これらの家中の動揺を収束すべく、義久は室町幕府将軍足利義輝に毛利氏との和睦調停を願うも毛利氏はこの和睦を無視し、和平調停は失敗したとされてきたが[1][2]、実際は和平調停は永禄4年(1562年)12月末に成立していたことが宮本義己の研究で明らかになった[3][4]。ただ、この和平調停による和平成立期間は半年間だけであった[5]

当時石見銀山が位置する東石見は尼子方に傾いていた。特に温泉氏多胡氏は尼子家臣として重い立場にあり、出雲から派遣されていた本城常光牛尾久清多胡辰敬が西石見で反毛利側として反乱を起こした福屋隆兼を支援しており、現状の追認では不利なものであった。

だが、義久は義輝の面子を保つためか、曽祖父・経久の代より蓄積されていた家臣団の不満や内部抗争の調停を終息させたい意図もあったのか、毛利氏との早期和睦を望み、元就は和睦の条件として「石見不干渉」を申し出とした。これに義久は即刻に同意したが、これは福屋氏を支援していた尼子諸将や尼子方国人、福屋氏にとっては自分達の立場がなくなることとなった。これにより、石見での尼子氏の前線は一気に崩壊し、本城常光は離反、多胡辰敬も石見岩山城にて自害するという事態に発展した。

石見での形勢が逆転した毛利氏は和睦を破棄し、永禄5年(1562年)には出雲侵攻に乗り出し、西出雲国人の三沢氏三刀屋氏赤穴氏米原氏が毛利氏に寝返り優勢となるも、義久がこの対抗策として北九州の大大名である大友宗麟と同盟を結んだことや、東出雲・伯耆・備中・美作の尼子方が結束して毛利氏に反発したことから、この遠征に4年間費やすこととなった。

その後も、足利義輝は雲芸に加えて豊(大友宗麟)を含めた3者の和議を模索しているが、月山富田城を目前とした元就は消極的であった。しかし、月山富田城の攻防が間近になった以上、雲芸和議の再開は現実的ではないとみた義輝、同様に尼子との挟み撃ちは現実的ではないとみた宗麟の思惑によって芸豊和議へと方向転換され、毛利隆元の急死などもあって交渉は遅延したものの、永禄7年(1564年)7月になって芸豊和議が成立して大友氏は毛利・尼子両氏の争いからは手を引いた[6]

更には伯耆・備中が失陥したことで、義久は居城である月山富田城が孤立し、永禄9年(1566年)11月に降伏した。

脚注

  1. ^ 瀬川秀雄『吉川元春』富山房、1944年、144頁
  2. ^ 河合正治『安国寺恵瓊』吉川弘文館、1959年、16頁
  3. ^ 宮本 1974a.
  4. ^ 宮本 1978.
  5. ^ 浅野 2015.
  6. ^ 宮本 1974b.

参考論文

  • 宮本義己「足利将軍義輝の芸・雲和平調停―戦国末期に於ける室町幕政―」『国学院大学大学院紀要』6輯、1974年。 
  • 宮本義己「戦国大名毛利氏の和平政策―芸・雲和平の成立をめぐって―」『日本歴史』367号、1978年。 
  • 宮本義己「足利将軍義輝の芸・豊和平調停」『政治経済史学』102号・103号、1974年。 
  • 宮本義己 著「元就の武略と外交手腕」、河合正治 編『毛利元就のすべて』新人物往来社、1986年。 
  • 浅野友輔「戦国期室町将軍足利義輝による和平調停と境目地域―尼子・毛利氏間和平と石見福屋氏の動向―」『十六世紀史論叢』4号、2015年。