陽猛

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陽 猛(よう もう、生没年不詳)は、北魏末から西魏にかけての軍人本貫上洛郡邑陽県

経歴[編集]

上庸郡太守の陽斌の子として生まれた。北魏の正光年間、万俟醜奴が関右で反乱を起こすと、朝廷に襄威将軍・大谷鎮将として抜擢され、胡城県令を兼ねて、万俟醜奴の攻撃を防いだ。529年永安2年)、元顥洛陽に入り、孝荘帝河内に避難すると、陽猛は范陽王元誨をかくまって保護した。孝荘帝が洛陽に帰還した後、広陵王元恭を保護した。孝武帝が即位すると、征虜将軍の位を受け、河北郡太守を代行した。まもなく安西将軍・華山郡太守に転じた。

孝武帝が関中に入ると、陽猛は部下を率いて潼関に駐屯し、郃陽県伯に封じられた。潼関を失陥すると、善渚谷に柵を立て、兵を徴集した。征東将軍・揚州刺史・大都督・武衛将軍に任じられ、善渚に駐屯した。537年大統3年)、東魏竇泰の襲撃を受け、単身で脱出した。1000人の兵を任され、牛尾堡を守った。宇文泰が竇泰を捕らえると、陽猛はまた別に東魏の弘農郡太守の淳于業を捕らえた。後に病没した。華洛揚三州刺史の位を追贈された。

子に陽雄があった。

伝記資料[編集]