陳耕元

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嘉義農林時代の陳耕元
(上松耕一)(左)

陳 耕元(ちん こうげん、1905年10月20日 - 1958年11月27日)、日本名上松 耕一(あげまつ こういち)は、台湾原住民プユマ族出身で、嘉義農林学校(現国立嘉義大学)の野球チーム選手として甲子園に出場した人物[1]。後に台東農校(現国立台東専科学校)校長。

生涯[編集]

陳耕元は1921年大正10年)卑南公学校(現在の南王小学校)に進学。1925年(大正14年)台東公学校(現台東大学付属実験小学)高等科在籍時に野球部へ勧誘される。嘉義農林学校進学時も野球部へ入り、1931年の第17回全国中等学校優勝野球大会に史上最年長(27歳)で参加。凖優勝となった。

1932年に日本へ留学し、横浜専門学校(現神奈川大学)に進学。1935年に卒業後台湾へ戻り、嘉義自動車会社(現嘉義客運)に就職する。その後、母校嘉義農林学校で教師と野球部コーチを務める。

1943年に蔡昭昭と嘉義神社で結婚式を挙げる[1]。蔡昭昭は雲林北港(現在の雲林県北港鎮)の大地主家庭の出身である[2]

第二次世界大戦終息後、故郷の台東に戻り、はじめzh:台東糖廠に務め、その後台東農校の教師となる,1947年に校長となり[3]、台湾東部地区で野球を広く推進するも、1958年交通事故によって死去する[4]

家族[編集]

映画化作品[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]