閑山島海戦

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閑山島海戦
戦争文禄の役
年月日文禄1年(1592年)7月7日
場所朝鮮国慶尚道見乃梁
結果:朝鮮水軍の勝利
交戦勢力
李氏朝鮮 日本豊臣政権
指導者・指揮官
李舜臣 脇坂安治
戦力
1,500人[1]
損害
損害大
文禄・慶長の役


閑山島海戦(かんざんとうかいせん)は、文禄の役における海戦の一つ。 文禄元年(1592年)7月7日に閑山島と巨済島の間の海峡で単独出撃をした脇坂安治率いる1500人[2]水軍を、朝鮮水軍が誘引迎撃戦術により撃破した海戦。


海戦の背景

文禄元年(1592年)4月の釜山上陸以来、見るべき抵抗の無かった朝鮮南岸に対し、侵攻作戦こそ無いものの策源地の釜山を中心に番外の所隊が支配領域拡大のために展開をしていた。5月に入ると、これらの部隊の海上移動にあたっていた海運部隊が李舜臣を中心とする朝鮮水軍の襲撃を受けた。


玉浦・泗川湾・唐浦の戦い

5月7日頃、李舜臣は91隻を率いて加徳島の玉浦に停泊する日本の輸送船団を攻撃し、26隻を撃破した(宣祖修正實録)。

同月29日、李舜臣は泗川湾で日本輸送船団を攻撃し、大船12隻を焼き払った。この時舜臣も銃弾を左肩に受け負傷した。6月2日朝、李舜臣は唐浦に停泊中の来島通之亀井茲矩率いる20余隻の船団を攻撃した[3]

これに対処するために豊臣秀吉は6月23日付けの書状で陸戦や後方輸送に従事していた脇坂安治(動員定数1500人)、九鬼嘉隆(動員定数1500人)、加藤嘉明(動員定数750人)の三大名を招集し、朝鮮水軍を討つように命じた。

閑山島海戦の経過

6月14日に三大名は釜山浦に集結したが、功名に逸った脇坂安治は抜け駆けをして7月7日に巨済島へ単独出撃をした。

一方、二度の出撃で戦果を上げた朝鮮水軍の全羅左水使・李舜臣(24隻)は7月6日に日本水軍の動きを察知すると直ちに出撃し、慶尚右水使・元均(7隻)と全羅右水使・李億祺(25隻)の水軍と合流した。

7月8日、日本艦隊を発見した李舜臣は出撃を主張する元均を抑え、囮と潮流を使った迎撃作戦を展開した。また、この艦隊には亀船三隻が参加していたという。[4]囮と海流に乗って出撃した脇坂艦隊は朝鮮水軍の迎撃を受け大きな被害を出し、脇坂安治も窮地に陥るが、座乗船の大きさと櫂の数による機動性を生かして撤退に成功した。

李舜臣は自身の記録である「見乃梁破倭状」で日本艦隊の発見数を大船36隻・中船24隻・小船13隻、撃破数を63隻と記録している。しかし、脇坂安治への動員定数が1500人[5]であることを考えると、発見数と戦果は過大申告である。(翌年5月の晋州城攻撃時の脇坂軍の点呼員数は900人)。

韓国では、脇坂安治の軍の兵力が5000~12000人、戦死者数5000~9000人などとする主張があるが、日本と韓国の史料にそのような記述は存在しない。また、3万程度の大名である脇坂安治が、5000人以上の兵力を動員することは不可能であり非現実的である。慶長の役においても、脇坂安治の動員数は1200人[6]である。1600年の関ヶ原の合戦での脇坂安治の動員数は900人であった[7]

文禄の役での動員数の例[8]

毛利輝元、112万石、動員30000人

加藤清正、20万石、動員10000人

宇喜多秀家、57万4,000石、動員10000人

小西行長、20万石、動員7000人

黒田長政、12万5,000石、動員5000人

脇坂安治、3万石、動員1500人[9]


この海戦で脇坂安治は部将の脇坂左兵衛と渡辺七衛門を失い、海賊出身の真鍋左馬允は船を失って上陸後に責任感から切腹した。また脇坂艦隊の内、海戦中に船を放棄して閑山島に上陸した者が200人生還している。

安骨浦海戦の経過

脇坂の抜け駆けを知った九鬼と加藤の水軍は7月6日に釜山出帆、7日に加徳島、8日に安骨浦に停泊して後を追った。安骨浦に日本艦隊が停泊しているとの報告を受けた李舜臣は悪天候で足止めされた後、10日に停泊中の日本艦隊を襲撃した。

安骨浦は浅瀬で大型船の運用に危険が伴うため、李舜臣は日本艦隊を誘引する作戦を取ったが日本艦隊は誘いに乗らなかった。やむなく順次突入させて大砲を放つ作戦へ変更して朝から晩まで攻撃を繰り返した。攻撃を受けた日本艦隊は夜の内に安骨浦を発って帰投し、朝鮮水軍も翌日から根拠地へ帰投した。

李舜臣は自身の記録である「見乃梁破倭状」で日本艦隊の発見数を大船21隻・中船15隻・小船6、と記録している。


海戦後の動向

7月14日に閑山島海戦での脇坂軍の敗北を知った秀吉は、積極的な艦隊出撃による海上決戦を禁止し、水陸共同による沿岸迎撃作戦への転換を指令し、武器弾薬や沿岸防備の増強を行った。この戦術転換は当時の水軍からすれば有効に機能しており、以降の李舜臣による水軍攻撃は成果が上がらなくなり被害が大きくなり出撃も減ることとなる(釜山浦海戦、熊川海戦、第二次唐項浦海戦、場門浦・永登浦海戦)。


海戦の評価

本海戦の結果に対し、日本の海上作戦計画が本格的な対応を行ったことで従来の被害の低減と迎撃作戦が機能することとなった。(「朝鮮役水軍史」有馬成甫)

脚注

  1. ^ 『天正記』第七巻所収「ちやうせん国御進発の人数つもり
  2. ^ 『天正記』第七巻所収「ちやうせん国御進発の人数つもり
  3. ^ 玉浦から唐浦までの経緯は、『愛媛県史 近世上』(愛媛県、1986年)P60-63より。
  4. ^ ただし、亀船(亀甲船)の実在も史料上、確証はない。
  5. ^ 『天正記』第七巻所収「ちやうせん国御進発の人数つもり
  6. ^ 「秀吉朱印状・慶長二年(1597)二月二十一日」陣立書
  7. ^ 参謀本部 関ヶ原役
  8. ^ 吉川弘文館、中野等、文禄・慶長の役、p33
  9. ^ 『天正記』第七巻所収「ちやうせん国御進発の人数つもり

関連項目