酒井重頼

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酒井重頼
時代 江戸時代
生誕 宝永8年(1711年
死没 寛政8年8月25日1796年9月26日
改名 重友→重頼
別名 吉太郎、吉之丞、玄蕃、屯
墓所 山形県鶴岡市家中新町 大督寺
幕府 江戸幕府
主君 酒井忠寄忠温忠徳
出羽庄内藩組頭
氏族 酒井氏
父母 父:酒井重秋、養父:酒井重喬
兄弟 重喬、直隆重頼、重一
了知
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酒井 重頼(さかい しげより)は、江戸時代の武士。出羽庄内藩組頭。酒井吉之允(玄蕃)家第6代。

経歴[編集]

宝永8年(1711年)、庄内藩番頭酒井重秋の子として生まれる。初名は重友

延享元年(1744年)6月、酒井吉之允(玄蕃)家を相続して、家老となっていた実兄重喬が、藩主忠寄に、遊廓での遊興を咎められ、家老を罷免、隠居を命じられたため、その養子となって家督と知行1300石を相続する。

宝暦10年(1760年)4月、組頭となる。明和4年(1767年)、新藩主となった忠徳がまだ幼いため、重頼の甥[1]の支藩松山藩主忠休が後見となる。

安永元年(1772年)9月、隠居して家督を嫡男重照(了知)に譲る。寛政8年(1796年)8月25日死去。享年86。

脚注[編集]

  1. ^ 酒井奥之助家を相続していた兄直隆の子で、松山藩主家を相続していた。

参考文献[編集]

  • 『荘内人名辞書』