鄒幹

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鄒 幹(すう かん、1409年 - 1492年)は、明代官僚は宗盛、は順庵。本貫杭州府余杭県

生涯[編集]

鄒済と薛氏のあいだの子として生まれた。皇太子朱高熾が監国したときと、鄒幹は応天府学生となった。1439年正統4年)、進士に及第した。兵部職方司主事に任じられた。1449年(正統14年)10月、兵部武選郎中から兵部右侍郎に抜擢された[1]。その才能のため于謙から頼りにされた。オイラトエセン・ハーン北京を包囲すると、北京城の九門は全て閉ざされた。このとき避難民が入城を求めたため、鄒幹は城門を開いてかれらを入城させた。

1451年景泰2年)12月、鄒幹は礼部右侍郎に転じた。1452年(景泰3年)、左春坊左庶子を兼ね、山西の官吏を考査監察した[2]。布政使の侯復以下五十数人を降格させた。河南鳳陽洪水被害を巡視し、王竑とともに振恤を請願した。また諸生に命じて穀物の輸送と納入を監視させるよう請願した。1466年成化2年)、北京周辺で飢饉が起こると、畿内を巡視して振恤にあたった。

1467年(成化3年)9月、鄒幹は南京礼部尚書に任じられた。1469年(成化5年)8月、礼部尚書となった。1478年(成化14年)2月、太子少保の位を加えられた。1479年(成化15年)12月、弾劾を受けて帰休を請願し、致仕した。1492年弘治5年)4月、死去した[3]。享年は84。太子太保の位を追贈された。は康靖といった。

子女[編集]

  • 鄒煜(長男)
  • 鄒煥(次男)
  • 鄒氏(長女、葛某にとついだ)
  • 鄒氏(次女、鴻臚寺序班の蘇和にとついだ)
  • 鄒氏(三女、処州衛指揮使の牛洪にとついだ)

脚注[編集]

  1. ^ 談遷国榷』巻28
  2. ^ 『国榷』巻30
  3. ^ 『国榷』巻42

参考文献[編集]

  • 明史』巻152 列伝第40
  • 故資徳大夫正治上卿太子少保礼部尚書贈太子太保諡康靖鄒公神道碑銘(徐溥『謙斎文録』巻4所収)