西郷義勝

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西郷 義勝(さいごう よしかつ、生年不詳 − 元亀2年(1571年))は、戦国時代武将。通称、孫太郎。右京進。西郷正勝の孫。正勝長男で西郷家当主の西郷元正の子。西郷清員は叔父にあたる。弟に西郷正友。正妻の他、後妻に戸塚忠春娘のお愛(のちの西郷局)。

永禄5年(1562年)、祖父と父の戦死により西郷家は家運衰退の危機に陥った。主君である徳川家康は、義勝の叔父である西郷清員に西郷の家督を継がせようとしたが、これを清員は頑なに拒み、兄の子である幼い義勝への相続を懇請。家康が折れて、義勝が家督相続することとなった。義勝は、清員の後見を得ながら成長し、西郷氏は家康への忠節を尽くした。

元亀2年(1571年)、武田氏配下の秋山虎繁(信友)が三河へ侵攻。縁戚である菅沼定盈の要請を受け、設楽郡竹広において合戦に及んだ(竹広合戦)。懸命の迎撃戦により、武田軍を一時的に退ける事に成功したが、義勝はこの戦いで命を落とした。

義勝には男子が二人いたと伝わる。叔父清員は今度もその男子への相続を働きかけたが、家康は今度は認めず、清員の子である家員を西郷氏の跡目と指定している。男子が幼弱である事が理由であるなら、義勝には歳の近い正友という弟がいて、こちらへの家督相続も考えられただろうが、家康はそれですら認めなかった。正友はのちに井伊直政に付けられている。

また、義勝は正室に先立たれた後、寡婦となっていた従姉妹(戸塚忠春娘)であるお愛を継室に迎え、この継室との間にも一男一女をもうけていた。この継室はのちに家康の側室に望まれた。一旦清員の養女となる形で家康の元へ入ったこの継室は後に徳川幕府の第二代将軍となる徳川秀忠松平忠吉の生母となる西郷局である。

遺児である繁勝(先妻の子か)、将軍の異父兄でもある勝忠(西郷局の子)は、成人後には徳川御三家である紀州家徳川頼宣)に仕える事となった。

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