袁君正

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袁 君正(えん くんせい、生年不詳 - 549年)は、南朝梁官僚は世忠。本貫陳郡陽夏県

経歴

袁昂の子として生まれた。立ち居振る舞いが美しく、貴公子として名声を得た。ほどなく吏部郎を兼ねた。母が死去したため、職を辞して喪に服した。喪が明けると、邵陵王友・北中郎長史・東陽郡太守となった。ほどなく建康に召還されると、郡民・隠士の徐天祐ら300人が宮殿を訪れて1年の留任を求めたが、武帝は許さなかった。そのまま君正は豫章郡内史に任じられ、ほどなく呉郡太守に転じた。548年太清2年)、侯景の乱が起こると、君正は数百人を率いて邵陵王蕭綸に従い、建康の援軍に赴いた。549年(太清3年)3月、建康が陥落すると、君正は呉郡に帰った。

反乱軍が于子悦[1]を派遣して呉郡を攻撃すると、新城戍主の戴僧逷が抗戦を勧めたが、陸映公らは反乱軍の略奪を恐れて抵抗しないよう求めた。君正は米と牛酒を送って、郊外で于子悦を迎えた。于子悦が呉郡に入ると、呉郡の財物子女を略奪した。君正はこれに衝撃を受けて病没した。

子女

脚注

  1. ^ 梁書』袁君正伝による。『南史』袁君正伝は「張太墨」とする。『梁書』侯景伝には「于子悦・張大黒」と見える。

伝記資料

  • 『梁書』巻31 列伝第25
  • 『南史』巻26 列伝第16