藤原有信

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藤原 有信(ふじわら の ありのぶ、長暦3年(1039年) - 康和元年9月11日[1]1099年9月27日))は平安時代中期から後期にかけての貴族漢詩人歌人儒学者藤原北家真夏流、式部大輔藤原実綱の三男。官位従四位下右中弁日野有信とも。

経歴

父や祖父・資業につづき対策に及第。治暦4年(1068年従五位下叙爵され、寛治元年(1087年正五位下兵部権大輔に叙任される。

寛治6年(1092年右少弁に任ぜられる。このとき右衛門権佐を務めている。寛治7年(1093年中宮大進を兼任。寛治8年(1094年)左少弁に転じる。その他、兵部少輔、東宮学士を務める(『尊卑分脈』、『本朝世紀』)。

嘉保2年(1095年美作権介、さらに円宗寺最勝会上卿を務める。永長2年(1097年和泉守を兼任。同年12月13日亥刻に有信の五条の第が焼亡している[2]承徳2年(1098年)右中弁に転じ、承徳3年(1099年従四位下に叙されるが康和元年(1099年)9月に卒去享年61。親鸞は孫にあたるとされる。

官歴

※以下『弁官補任』の記載に従う。

  • 治暦4年(1068年)従五位下(『本朝世紀』)。
  • 寛治元年(1087年)12月:正五位下、兵部権大輔、東宮学士(『本朝世紀』)。
  • 時期不詳:兵部少輔、右衛門権佐。
  • 寛治6年(1092年)11月8日:右少弁。
  • 寛治7年(1093年)4月:中宮大進。
  • 寛治8年(1094年)6月13日:左少弁。
  • 嘉保2年(1095年)正月28日:美作権介、2月19日:円宗寺最勝会上卿[3]
  • 永長2年(1097年)正月29日:和泉守、去大進。
  • 承徳2年(1098年)12月17日:右中弁。
  • 承徳3年(1099年)正月4日:従四位下。

系譜

※以下、『尊卑分脈』の記載に従う。

脚注

  1. ^ 本朝世紀』。『尊卑分脈』では11日。
  2. ^ 中右記承徳元年12月13日条
  3. ^ 『中右記』嘉保2年2月19日条