藤原敦基
藤原 敦基(ふじわら の あつもと、永承元年(1046年) - 嘉承元年7月16日[1](1106年8月16日))は、平安時代後期の貴族・漢詩人。藤原式家、文章博士・藤原明衡の子。官位は正四位下・上野介。
経歴
白河天皇の皇太子時代よりその傍に仕え、また藤原師実の家司をも務める。文章得業生から、蔵人などを経た後、寛治2年(1088年)には文章博士に任ぜられる。父と同様に学識に秀で、特に漢詩の才をもっては当代随一であり、凡そ文に属する者で敦基の弟子でない者はない、とまで謳われた。著作として『国史後抄』『柱下類林』があり、また作品が『本朝続文粋』『本朝無題詩』などに収められている。
同時代の源義家と文武の双璧と称され、互いに交流も持った。娘は義家の子・義国に嫁いでいる[2]。
官歴
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系譜
- 養子:藤原敦光(1062-1144) - 実は敦基の同母弟
脚注
参考文献