茂山千五郎家

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茂山千五郎家(しげやま せんごろうけ)とは、狂言大蔵流の名門。代々京都に居住し、関西を中心に活動してきたが、近年はメディアへの露出も増え、またその活動範囲も全国に拡大している。現在の当主(家長)は14世茂山千五郎茂山正邦)。

家の歴史

江戸時代

茂山家は江戸時代以来京都で狂言師として活動してきた家であったが、大蔵流の名門としての地位が確固たるものになったのは、江戸後期に9世茂山千五郎正虎(初世千作。1810年生~1886年没)が登場して以降である。正虎は京都の呉服商の息子で当初は佐々木忠三郎といったが、8世茂山久蔵英政の養子となり千吾正虎と名乗った。天保元年(1830年)に彦根城で能会が開かれた折に、彦根藩のお抱え狂言師であった小川吉五郎が「枕物狂」を上演中に急病で倒れ、その後を千吾(当時20歳)が見事に代演してみせたので、藩主の井伊直弼に気に入られ、その場で召し抱えられた。直弼は能楽好きで知られ、当時失伝していた「狸腹鼓」を復曲(俗称「彦根狸」)したり「鬼ヶ宿」を自作したりしては正虎に演じさせていた。現在この両曲が、茂山家にとって特別に大事な曲として扱われているのはそのためである。

明治以降

正虎には3人の子がいたが、上の2人は早世し、三男の市蔵(1864年生~1950年没)は放蕩息子であった。正虎が明治19年(1886年)に死ぬと、市蔵は悔い改めて父の衣鉢を継ぐことを決意し、正虎の門弟たちに芸を習い、翌々年に10世千五郎(正重。後に2世千作)を襲名した。正重は親しみやすい狂言を目指し、どのような小さな集会にでも気軽に馳せ参じて低料金で狂言を演じた。茂山千五郎家の家訓として知られる「お豆腐主義」は正重の代に確立したものである。また、正重は文明開化とともに衰微する一方であった京都の民間芸能の保存にも熱心で、祇園祭の長刀鉾の稚児の世話役や壬生狂言の維持会長などを勤めた。 正重は実子がおらず、養子の真一(まさかず)が11世千五郎(後に3世千作。1896年生~1986年没)を襲名した。真一は小柄ではあったが声がよく通り、太郎冠者物や座頭物を得意とした。筆まめな人物で、千五郎家の現行曲(182番)と番外曲を35年かけて台本として書きとめた。千五郎家には正虎が江戸での修行時代に家元より拝領した虎寛本系の台本があるにはあったが、既に時代も変わり、実際の千五郎家の狂言とは細部においてかなり違いが生じていたので、千五郎家の証本を新たに作り直す必要があったのである。1976年には大蔵流としては二人目の人間国宝に認定されるなど、晩年は狂言師としても高く評価された。

戦後の活躍

千五郎家では正重以来長らく男子が生まれなかったが、真一は子供に恵まれ、七五三(しめ。12世千五郎、4世千作。1919年 - 2013年)と政次(2世千之丞。1923年 - 2010年)の兄弟が千五郎家の芸を受け継いだ。二人はそれまでの慣例を破って武智鉄二の演出した新劇歌舞伎に出演するなど、積極的に他芸と交わっていったため、能楽協会から退会勧告を受けたこともあった。七五三は天性の愛敬さを生かして底抜けに明るく楽しい狂言を演じて人気を博し、1989年に父と同じ人間国宝(大蔵流では3人目)に認定された。1994年隠居名の4世千作を襲名後も精力的に活動し、2007年には狂言界で初の文化勲章を受章した。千之丞は兄と対照的に多才な理論家で、狂言の新作や復曲をしたりオペラやミュージカルの演出を手がけたりと、多方面での活動でも知られた。声質は父・3世千作に近い高めでよく通るものであったことから、わわしい女房として兄・七五三(やや低めでだみ声だった)の演ずる亭主をやり込めるような役柄で大いにうけた。

次世代・その次の世代へ

彼らの子、孫の世代も活躍しており、七五三の子の正義(13世千五郎)・眞吾(2世七五三)・千三郎や2世千之丞の子のあきら、正義の子の正邦・茂、眞吾の子の宗彦(もとひこ)・逸平、あきらの子の童司(3世千之丞)がそれぞれ狂言師となって千五郎家を支えている。また、千五郎家は代々弟子の面倒見がよいことで知られており、その中にはプロの狂言師となった者も多い。現在能楽協会に属する狂言師としては、木村正雄(3世千作門下)・佐々木千吉(同)・網谷正美(4世千作門下)・松本薫(同)・丸石やすし(2世千之丞門下)らがいる。

関連項目

外部リンク