肝付兼幸

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肝付兼幸(きもつき かねゆき、文禄元年(1592年) - 慶長15年12月11日1611年1月24日))は安土桃山時代から江戸時代初期の武士鹿児島藩藩士、肝付氏本家20代当主。実質上、肝付本家の最後の当主と言われる人物である。

肝付兼護と後妻・税所氏の間の長男として生まれるが、この頃の肝付氏は転封により旧領の高山を追われていたことに加え、家臣団の内紛や父・兼護が先妻(肝付良兼の娘)との離婚で揉めた事を咎められて領地を削られ、所領は100石しか持っていなかった。更に慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで父・兼護は戦死してしまう。父の死後、若干9歳で家督を相続。

慶長15年、島津家久琉球王の尚寧を連れ上洛した際、兼幸も島津氏家臣として同行する。この帰路の途中に乗船が暴風雨に遭い難破、兼幸は溺死した。享年20。当時兼幸は結婚しておらず、他に子供もいなかった。また兄弟も他にいなかったため、肝付本家の血統は兼幸の死によって断絶することとなった。

後、兼幸の母の税所氏が島津家久の娘に仕えた功績により、肝付家の家名再興を許されることになったが、後継者は肝付氏とは遠縁の新納忠秀の子(新納氏は母の母、すなわち兼幸の母方の祖母の実家)が迎えられたため、実質的に兼幸で肝付家の本家は血統上の終焉を迎えたとも言える。

その後の肝付家は、100石取りの薩摩藩藩士として存続した。