結城満藤
生誕 | 不明 |
---|---|
死没 | 不明 |
別名 |
通称:十郎、勘解由左衛門尉[1][2] 道成(法名)[3] |
官位 | 越後守、山城守護 |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 足利義満 |
父母 | 結城氏(奉公衆) |
結城 満藤(ゆうき みつふじ)は、室町時代の武将である[2]。越後守、山城守護を務めた。本姓は古山[1]。通称は十郎、勘解由左衛門尉。
経歴・人物[編集]
丹後国の出身である[2]。元は古山氏の出身であり、古山珠阿の縁者と考えられている。珠阿は、『鹿苑院殿厳島詣記』に名前が見える時衆の同朋衆で、古山十郎とも記される[4]。
明徳2年(1391年)に明徳の乱が発生した際に山名満幸の反乱を注進したことで将軍足利義満の最側近となり室町幕府に仕える[1]。
明徳5年(1394年)山城守護に任命される[1]。義満の恩寵を笠に着てわがままで横暴な行為がおおく、諸大名の反感を買い、応永3年(1396年)一時は出家して道成[5]と称したが、のち復職した[1]。応永10年まで守護在任が知られるが、その後の動静は不詳である[2]。
足利義量の奉公衆には結城持藤の名が確認でき、同族である。また、足利義尚の寵愛を受けた結城政胤・結城尚豊兄弟や結城国縁・結城忠正なども同族であると考えられる。
脚注[編集]
- ^ a b c d e デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『結城満藤』 - コトバンク
- ^ a b c d 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞社)『結城満藤』 - コトバンク
- ^ 松井直人「室町幕府山城国支配の展開と山城守護――南北朝・室町期を中心に――」『史学雑誌』131巻4号(公益財団法人史学会、2022年)
- ^ 松井直人「室町幕府山城国支配の展開と山城守護――南北朝・室町期を中心に――」『史学雑誌』131巻4号(公益財団法人史学会、2022年)
- ^ 松井直人「室町幕府山城国支配の展開と山城守護――南北朝・室町期を中心に――」『史学雑誌』131巻4号(公益財団法人史学会、2022年)