紫溟吟社

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紫溟吟社(しめいぎんしゃ)は、明治時代熊本県熊本市を拠点に活動した俳句結社[1]1898年明治31年)10月に、当時正岡子規高浜虚子らと共に有力な俳人の一人で、第五高等学校教授を務めていた夏目漱石を主宰として、五高の学生であった寺田寅彦蒲生紫川厨川千江、早川草江らと校外の有志である池松迂巷らが熊本で興した新派俳句会[1] であった。九州・熊本の俳壇に影響を与え、多くの俳人が輩出した。なお社名の「紫溟」は、有明海のことを指す。

漱石がイギリス留学のため熊本を去り、また五高生が進学などで熊本を離れた後、しばらくは五高外の同人である池松、渋川玄耳広瀬楚雨、川瀬六走らによって支えられた[1] 。同社の機関誌『銀杏』(いちょう)は渋川らが中心となって発行されたが[2]1902年(明治35年)の第11号をもって休刊した。同人が進学などで各地へ散り散りになったり、戦地へ赴いたりした結果、次第に会の活動も停止へ向かった[1]

出典

  1. ^ a b c d 熊本日日新聞社編纂『熊本県大百科事典』熊本日日新聞社、1982年、418頁
  2. ^ 熊本県高等学校教育研究会国語部会編 『くまもと文学紀行』 熊本県高等学校教育研究会、2005年、209頁

参考文献

  • 荒木精之『熊本文学ノート』日本談義社、1957年、79-110頁
  • 山崎貞司『熊本文学散歩』大和学芸図書、1976年、110-114頁
  • 熊本県高等学校教育研究会国語部会編 『くまもと文学紀行』 熊本県高等学校教育研究会、2005年

関連項目