紀春枝

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紀 春枝(き の はるえだ、生没年不詳)は、平安時代初期から前期にかけての貴族氏姓は雀部朝臣のち紀朝臣。官位従五位上左衛門権佐

出自

雀部氏(雀部朝臣)は巨勢氏の一族で、許勢小柄の子である星川建彦の後裔とする皇別氏族[1]

経歴

もと雀部朝臣姓であったが、斉衡元年(854年)同じく武内宿禰の後裔とする林並人とともに、紀朝臣姓に改姓する(この時の官位従六位上左衛門少尉)。斉衡3年(856年従五位下に叙爵して、左馬助木工助に任ぜられる。文徳朝末に左衛門権佐兼木工頭に昇格し、天安2年(858年)の文徳天皇崩御の際には装束司を勤める。

貞観4年(862年)正月に従五位上に昇叙されると、同年4月には河内摂津両国が争っていた伎人堤(西除川堤防)に関して裁定を行うために、右衛門大尉・藤原好行とともに派遣される[2]。貞観11年(869年)5月に貞観地震が発生すると、9月に被害状況を検分するために、陸奥国地震使に任ぜられて多賀城に派遣される。その翌月には朝廷に対して状況報告が行われたらしく、地震からの復興策に関しての詔勅が発せられている[3]

官歴

六国史』による。

脚注

  1. ^ 新撰姓氏録』左京皇別
  2. ^ 日本三代実録』貞観4年3月4日条
  3. ^ 『日本三代実録』貞観11年10月13日条

参考文献